・・・ちょうど母が歿くなる前年、店の商用を抱えた私は、――御承知の通り私の店は綿糸の方をやっていますから、新潟界隈を廻って歩きましたが、その時田原町の母の家の隣に住んでいた袋物屋と、一つ汽車に乗り合せたのです。それが問わず語りに話した所では、母は・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指には洋銀の戒指して、手頸には風邪ひかぬ厭勝というなる黒き草綿糸の環かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・この曖昧さ加減を最も明らかに吾人に示すのは綿糸の撚り糸である。一条の撚り糸を与えられてその長さを精密に測ろうと企てた人は、ここに述べた困難を切実に味わう事が出来ようと思う。約三尺の糸は測る度ごとに一分二分、時には寸余の相違を示すのである。そ・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・赤味のかかったうすい茶色の厚い紬の様な地の袢衿があったので、その模様を太い綿糸で縫いとって本の表紙にするつもりで買って仕舞った。 その店を出た時お繁婆さんの背中の風呂敷は少しふくれて居た。中にはさっきの袢天が入って居るのだ。「おとも婆さ・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫