・・・動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、な・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・とうてい彼のしゃべる英語を、いちいち理解するほど、神経を緊張する気になれない。 そのうちに、船が動きだした。それも、はなはだ、緩慢な動き方で、船と波止場との間の水が少しずつ幅を広くしていくから、わかるようなものの、さもなければ、ほとんど・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかった。 赤坊が縊り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。 上框に腰をかけていたもう一人の男はやや暫らく彼れの顔・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・暫くしてかすかな産声が気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那に忽如として現われ出たのだ。 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ただこの一夜を語り徹かした時の二葉亭の緊張した相貌や言語だけが今だに耳目の底に残ってる。三 食道楽と無頓着 二葉亭には道楽というものがなかった。が、もし強て求めたなら食道楽であったろう。無論食通ではなかったが、始終かなり厳ま・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・しかし、やがて豪放な響きが寿子のヴァイオリンから流れ出すと、彼等の表情は一斉に緊張した。彼等には今自分たちの前で「ラフォリア」を弾いている人間が、お河童の十三歳の少女であるとは、もはや信じきれなかった。 コンクールの成績が発表されると、・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・はっと緊張し、「よう来てくれはりました」初対面の挨拶代りにそう言った。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭を撫でると、顔をしかめた。 一時間ほどして帰って行った。夫に内緒で来たと言・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そしてとにかく彼は私なぞとは比較にならないほど確乎とした、緊張した、自信のある気持で活きているのだということが、私を羨ましく思わせたのだ。 私はまた彼の後について、下宿に帰ってきた。そして晩飯の御馳走になった。私は主人からひどく叱られた・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るような冷気が径へ通っているところだった。一本の古びた筧がその奥の小暗いな・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・心は緊張し過ぎるほど緊張していた。一つの曲目が終わって皆が拍手をするとき私は癖で大抵の場合じっとしているのだったが、この夜はことに強いられたように凝然としていた。するとどよめきに沸き返りまたすーっと収まってゆく場内の推移が、なにか一つの長い・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
出典:青空文庫