・・・しかし緊張と、苦悩と、克服とのないような恋は所詮浅い、上調子なものである。今日の娘の恋は日に日に軽くなりつつある。さかしく、スマートになりつつある。われらの祖先の日本娘はどんな恋をしたか、も少し恋歌を回顧してみよう。言にいでて言はば・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・その顔は緊張して横柄で、大きな長靴は、足のさきにある何物をも踏みにじって行く権利があるものゝようだった。彼は、――彼とは栗島という男のことだ――、特色のない、一兵卒だった。偽せ札を作り出せるような気の利いた、男ではなかった。自分でも偽せ札を・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ワーシカは、一種の緊張から、胸がドキドキした。「待て!」 彼れは、小屋のかげから着剣した銃を持って踊りでた。 若者は立止った。そして、「何でがすか? タワリシチ!」 馴れ馴れしい言葉をかけた。倶楽部で顔見知りの男が二人い・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・獣は所謂駭き心になって急に奔ったり、懼れの目を張って疑いの足取り遅くのそのそと歩いたりしながら、何ぞの場合には咬みつこうか、はたきつけようかと、恐ろしい緊張を顎骨や爪の根に漲らせることを忘れぬであろう。 応仁、文明、長享、延徳を歴て、今・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・少年は焦るような緊張した顔になって、羨しげに、また少しは自分の鉤に何も来ぬのを悲しむような心を蔽いきれずに自分の方を見た。 しばらく彼も我も無念になって竿先を見守ったが、魚の中りはちょっと途断えた。 ふと少年の方を見ると、少年はまじ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・あんまり緊張して、ついには机のまえに端座したまま、そのまま、沈黙は金、という格言を底知れず肯定している、そんなあわれな作家さえ出て来ぬともかぎらない。 謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・これはいよいよ、ただ事でないと、私も緊張しました。 私は下駄をつっかけて土間へ降り、無言で鶏小屋へ案内しました。雛の保温のために、その小屋には火鉢を置いてあるのです。私たちは真暗い鶏小屋にこっそりはいります。私たちがはいって行っても、鶏・・・ 太宰治 「嘘」
・・・その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急き込んだ質問は、・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・強い紫外線と烈しい低温とに鍛練された高山植物にはどれを見ても小気味のよい緊張の姿がある。これに比べると低地の草木にはどこかだらしのない倦怠の顔付が見えるようである。 帰りに、峰の茶屋で車を下りて眼の上の火山を見上げた。代赭色を帯びた円い・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・辰之助は緊張した表情でそう言って、電報を道太に渡した。 道太はまたかと思って、胸がにわかに騒いだ。 電文は三音信ばかりあった。「リツコジウビヨウビヨウメイミテイダイガクヘニウインシタアトフミ」そういう文言であった。 道太はひどく・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫