木村項の発見者木村博士の名は驚くべき速力を以て旬日を出ないうちに日本全国に広がった。博士の功績を表彰した学士会院とその表彰をあくまで緊張して報道する事を忘れなかった都下の各新聞は、久しぶりにといわんよりはむしろ初めて、純粋・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・しかもその美的法則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、非常に緊張して戦いていた。例えばちょっとした調子はずれの高い言葉も、調和を破るために禁じられる。道を歩く時にも、手を一つ動かす時にも、物を飲食する時にも・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 何十年も、殆んど毎日のように、導火線に火を移す彼等であっても、その合図を待つ時には緊張しない訳には行かなかった。「恐ろしいもんだ。俺なんざあ、三十年も銅や岩ばっかり噛って来たが、それでも歯が一本も欠けねえ」「岩は、俺たちの米の・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 恐愕の悪寒が、激怒の緊張に変った。匕首が彼の懐で蛇のように鎌首を擡げた。が、彼の姿は、すっかり眠りほうけているように見えた。 制服、私服の警官隊が四人、前後からドカドカッと入って来た。便所の扉を開いた。洗面所を覗いた。が、そこ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・だから作をする時にゃ、精神は非常に緊張させるけれども、心には遊びがある。丁度、撃劒で丁々と撃合っては居るが、つまり真劒勝負じゃない、その心持と同なじ事だ。こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私は作をしていれば無意味だ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・そしていっぱいに気兼ねや恥で緊張した老人が悲しくこくりと息を呑む音がまたした。 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・展開されゆく道中の景色を楽しく語合うことも出来ますし、それに一人旅のような無意味な緊張を要しないで気安い旅が出来るように思います。煩いのない静かなところに旅行して暫く落ちついてみたい――こんな慾望を持っていますが、さて容易いようで実行できな・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・ヘルマン・バアルが旧い文芸の覗い処としている、急劇で、豊富で、変化のある行為の緊張なんというものと、差別はないではないか。そんなものの上に限って成り立つというのが、木村には分からないのである。 木村はさ程自信の強い男でもないが、その分か・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・未来は鵜の描く猛猛しい緊張の態勢にあって、やがて口から吐き流れる無数の鮎の銀線が火に映る。私は翌日鵜匠から鵜をあやつった綱を貰ったが、火にもやけぬこの綱は、逆に捻じればぽろりと切れた。この微妙な考案力はどこから来たのかいまだに私は不思議であ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・これまで人前で演説などをしたことのない父が、街頭で宣伝をやると言いだしたのはよほど気持ちが緊張していることを思わせる。ところで父が宣伝しようとするのは何であろうか。これは小生にはすぐに解った。父はただいわゆる過激思想だけを恐れているのではな・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫