・・・ 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頬へ線を画き、下唇は噛まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・もしもこの生徒が入学中に十露盤の稽古したることならば、その初歩に廃学するも、雑用帳の〆揚げぐらいは出来て、親の手助けにもなるべきはずなるに、虎の画を学んで猫とも犬とも分らぬもののできたるさまなり。つまり猫ならばはじめから猫を学ぶの便利にしか・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。 ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・無精で呑気で仇気ない愛嬌があって、嫋やかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・座敷の戸を締め切って、籠み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。 二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そして家の背後の空地の隅に蹲って、夜どおし泣いた。 色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 二人は羽がい締めにされた闘鶏のように、また人々の腕の中で怒り立った。「放してくれ、此奴逝わさにゃ、腹の虫が納るかい。」「泣きやがるな!」「何にッ!」 秋三は人々を振り切った。そして、勘次の胸をめがけて突きかかると、二人・・・ 横光利一 「南北」
・・・ この土地では夜も戸を締めない。乞食もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪めたよう・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・旅人は這入って戸を締めた。フィンクはその影がどこへ落ち着くか見定めようと、一しょう懸命に見詰めている。しかし影は声もなく真の闇の中に消えてしまう。そしてどこかで長椅子がぎいぎいいう。旅人が腰を据えたのであろう。 部屋の中はまたひっそりす・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ 僕は少さい内から、まじめで静かだったもんだから、近処のものがあたりまえの子供のあどけなく可愛ところがないといい/\しましたが、どうしたものか奥さまは僕を可愛やとおっしゃらぬ斗りに、しっかり抱〆て下すったことの嬉しさは、忘れられないで、よく・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫