・・・を究る能わず、しかのみならず、わが一挙手一投足はなはだ粗野にして見苦しく、われも実父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用ようやく繁く、心ならずも次第にこの道より遠ざかり・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいふなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人繁く賑はしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしを・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・電車のないその時分、廓へ通う人の最も繁く往復したのは、千束町二、三丁目の道であった。 この道は、堤を下ると左側には曲輪の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあって、車夫や廓者などの住んでいた長屋のつづいていた光景は、『たけくらべ』・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。「・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 翌日馬場の家へ行って、いろいろの事を聞いて来た栄蔵は、その次の日からせっせと山岸の家へ足繁く往来し出した。 役場の仕事もある事だし、複業にして居る牧牛がせわしかったりして、山岸の方へもあまりせき込んだ話はして居られないので栄蔵が仲・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 黄金色の繁くまたたく光線にくっきりと紫色の輪廓をとって横わって居る姿は神秘的なはでやかさをもって居る。 うす灰色から次第次第に覚めて来て水の様な色がその髪を照らした時、 世のすべての純潔なものは皆その光線の下に集められたかの様・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 母親は、むっとした顔でそっぽを向き瞬きを繁くしている。―― やがて袖をさぐってハンケチを出しながら泣き出した。しかしそれは、自分がわるかったとさとって流している涙でないことは、犇と私に分るのであった。 母親が帰ってゆくと、・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 千世子が気まぐれに時々水彩画を描く木炭紙を棚から下してそれを四つに切ったのに器用な手つきで炬燵につっぷして居る銀杏返しの女の淋しそうな姿を描いて壁に張りつけて眼ばたきを繁くしながらよっかかる様な声で云った。「冬中私の一番沢山す・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ それから、段々職業婦人というものが多くなって、女の外出ということが繁くなるに従って、一つは綺麗ではあるが二三年でもう棄ててしまう安もの――棄ててしまっても何等惜しくないのを着る者と、他は高価ではあるが永い間着て悪くならないつまり「・・・ 宮本百合子 「二つの型」
・・・こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道の二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食わむとする人なし。下りになりてより霧深く、背後より吹く風寒く・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫