・・・露伴先生の紀行によると、明治三十年頃、境川の両岸には樹木が欝蒼として繁茂していた事が思い知られるのであるが、今日そのあたりには埋立地に雑草のはびこる外、一叢の灌莽もない。境川は既に埋められてその跡は乗合自動車の往復する広い道になっている。・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・往時隅田川の沿岸に柳と蘆との多く繁茂していたことは今日の江戸川や中川と異る所がなかった。啻に河岸のみならず灌田のために穿った溝渠の中、または人家の園池にも蒹葭は萋々と繁茂していた。蜀山人が作にも金竜山下起二金波一 〔金竜山下に金波・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ わが断腸亭奴僕次第に去り園丁来る事また稀なれば、庭樹徒に繁茂して軒を蔽い苔は階を埋め草は墻を没す。年々鳥雀昆虫の多くなり行くこと気味わるきばかりなり。夕立おそい来る時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽の樹間に逃惑うさまいと興あ・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・棍棒は繁茂した桑の枝を伝いて其根株に止った。更に第三の搏撃が加えられた。そうして赤犬を撲殺した其棍棒は折れた。悪戯の犠牲になった怪我人は絶息したまま仲間の為めに其の家へ運ばれた。太十は其夜も眠らなかった。彼は疲労した。七 怪・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 稲田は、堂々と、人間生活の労力の上に繁茂しているのに、折々汽車の窓から見えるこの辺の農家は、何と小さいだろう。しかも、稲田の広大な面積に比べて、数が少い。関東の農村のように、防風林をひかえて、ぐるりに畑や田をもった農家が散財していると・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・ 庭に小松の繁茂した小高い砂丘をとり入れた、いかにも別荘らしい、家具の少ない棲居も陽子には快適そうに思われた。いくら拭いても、砂が入って来て艶の出ないという白っぽい、かさっとした縁側の日向で透きとおる日光を浴びているうちに陽子は、暫らく・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・濡れて繁茂した竹が房々した大きい手、ふり乱した髪、その奥には眼さえ光らせて猛るようだ。大竹藪の真ん中で嵐に会った人間は今自分のいる外の天地にも同じ変化が起っているのだとはとても信じ得まい。上を仰ぐ――真青な騒々しい動揺。横を窺う――条を乱し・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・太平洋に面した海岸の巖石が、地質の関係で、亀甲形や菊皿のような形に一面並んでいる、先に南洋の檳榔樹、蘭科植物などが繁茂した小島が在る。その巖の特殊な現象と、その小島に限って南洋植物が生育しているのとが、青島を著名にしているのだが、私共は大し・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・ 飴緑色の半透明な茎を、根を埋めた水苔のもくもくした際から見あげると、宛然それ自身が南洋の繁茂した大樹林のように感じられた。 想像の豊かな若者なら、きっとその蔭に照る強い日の色、風の光、色彩の濃い熱帯の鳥の翼ばたきをまざまざと想うこ・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩いたり、なんかガスのように下方をはい流れているうつらうつらとして陰惨な楽しみに酔う自身の姿に気がついて、なるほど世に繁茂する思想の生え上った根もとはここなのかと、はっと瞬間目醒めるように眼前の空間・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
出典:青空文庫