・・・ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。 すると三分・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・そう云った身拵えで、早稲田の奥まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通りやってもらいたいというご口上なのです。私はもう責任を逃れたように考えていたものですから実は少々驚ろきました。しかしまだ一カ月も余裕があるか・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微かなあかりにすかして頁を繰りました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そし・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・ 幾度も幾度も繰り返して、まるで、饑えた犬が、牛の骨をもらいでもした様にして見るので、銀地へ胡粉で小綺麗な兎を描き、昔の絵にある様な、樹だの鳥だのをあしらった表紙も、もう一体に薄墨をはいた様になってしまって居る。 そのぼやけた表紙か・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ その変に捩くれた万年筆を持った男が、帳簿を繰り繰り、九段にこんな家があるが、どうですね、少々権利があって面倒だが、などと云っている時であった。 格子の内に、白い夏服を着、丸顔で髪の黒い一人の外国人が入って来る。 そして、貸家が・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・いろいろな気持など、その時分は到って漠然としていたのだが、それでもその旅行の計画の中には、バクー見学とドン・バス炭坑見学とだけは繰りいれられてあった。ドン・バスの方はその前年全ソヴェト同盟のみならず世界の注目をひいたドイツ技師を筆頭とする国・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・その中に入ると、歴史的現象は次々へ繰りひろげられているけれども、歴史的現象のその奥に横わっている筈の真の社会的条件の推移にまでふれては理解のてづるが与えられていないのが常だった。 日本文化史総論は、そういう世界史との横の感覚も常に保ちつ・・・ 宮本百合子 「世代の価値」
・・・ 女中が手を拭き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がに・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・同じモデルの写生を下手に繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆をするのは、読者に感謝して貰っても好い。 尤もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩の時、千住で小休みをする度毎・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・そして百日紅の植わっている庭の方の雨戸が疎らに締まっているのを、がらがらと繰り開けた。庭は内から見れば、割合に広い。爺さんは生垣を指ざして、この辺は要塞が近いので石塀や煉瓦塀を築くことはやかましいが、表だけは立派にしたいと思って問い合わせて・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫