・・・少年は今はもう羨みの色よりも、ただ少年らしい無邪気の喜色に溢れて、頬を染め目を輝かして、如何にも男の児らしい美しさを現わしていた。 それから続いて自分は二尾のセイゴを得たが、少年は遂に何をも得なかった。 時は経った。日は堤の陰に落ち・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・蛾をはたき落す猫を羨み讃歎する心がベースボールのホームランヒットに喝采を送る。一片の麩を争う池の鯉の跳躍への憧憬がラグビー戦の観客を吸い寄せる原動力となるであろう。オリンピック競技では馬や羚羊や魚の妙技に肉薄しようという世界中の人間の努力の・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ 此一章は専ら嫉妬心を警しむるの趣意なれば、我輩は先ず其嫉妬なる文字の字義を明にせんに、凡そ他人の為す所にして我身の利害に関係なきことを羨み、怨み憎らしく思い、甚しきは根もなきことに立腹して他の不幸を祈り他を害せんとす、之を嫉妬・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合ある・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 都会の消費者は、目前の食糧難に気がたって、つい農村を羨み、怨むような気分になる。しかも、双方にそんな思いをさせる政府こそ本当の対手なのである。 発表された憲法草案は、日本の運命にとっていろいろ真面目な問題を持っている。第十二条に、・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
・・・私は、羨みながら机の前に遺っている。よほどして、日によると、数間彼方の釣堀から、遽しい呼び声が起る。「おーい、早く、バケツ」 私は、あわてふためいて台どころに降り、バケツに水を汲み込み、そとへ駆け出す。水がこぼれるから早くは駆けられ・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ けれ共一度寄せた大浪が引く様に高ぶった感情がしずまると渚にたわむれかかる小波の様に静かに美くしく話す、その自分の言葉と心理をどうにでも向けかえる事の出来るのを千世子は羨みもし又恐ろしい事だとも思った。 千世子の好いて居る詩人をすき・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・先代が格別入懇にせられた家柄で、死天の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。 しかるに一種変った跡目の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫