・・・けれども今、冷やかな山懐の気が肌寒く迫ってくる社の片かげに寂然とすわっている老年の巫女を見ては、そぞろにかなしさを覚えずにはいられない。 私は、一生を神にささげた巫女の生涯のさびしさが、なんとなく私の心をひきつけるような気がした。・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲しめのためにひどい小言を・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと堪えていたけれどね、傍に居た老年の婦人の方が深切に、 といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って溜へ行ッちゃ、笑って見せていたけれど、どんな・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・嵯峨の屋は今は六十何歳の老年でマダ健在であるが、あのムッツリした朴々たる君子がテケレッツのパアでステテコ気分を盛んに寄宿舎に溢らしたもんだ。語学校の教授時代、学生を引率して修学旅行をした旅店の或る一夜、監督の各教師が学生に強要されて隠し芸を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・先生極真面目な男なので、俳句なぞは薄生意気な不良老年の玩物だと思っており、小説稗史などを読むことは罪悪の如く考えており、徒然草をさえ、余り良いものじゃない、と評したというほどだから、随分退屈な旅だったろうが、それでもまだしも仕合せな事には少・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・重い病も、老年の孤独というものも知らなかった。このまますわってしまうのかと思うような、そんな恐ろしさはもとより知らなかった。「みんな、そうですよ。子供が大きくなる時分には、わがからだがきかなくなりますよ。」と、私に言ってみせたある婆さんもあ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・彼女が小山の家を出ようと思い立ったのは、必ずしも老年の今日に始まったことではなかった。旦那も達者、彼女もまだ達者で女のさかりの頃に、一度ならず二度ならず既にその事があった。旦那くらい好い性質の人で、旦那くらい又、女のことに弱い人もめずらしか・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私の前には、まだいくらものぞいて見ない老年の世界が待っていた。私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・或る実験報告 人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。老年 ひとにすすめられて、「花伝書」を読む。「三十四五歳。このころの能、さかりのきはめなり。ここにて、この条条を極めさと・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ それとほぼ同じようなわけで、もはや青春の活気の源泉の枯渇しかけた老年者が、映画の銀幕の上に活動する花やかに若やいだキュテーラの島の歓楽の夢や、フォーヌの午後の甘美な幻を鑑賞することによって、若干生理的に若返るということも決して不可能で・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
出典:青空文庫