・・・ 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。「東枕でしょう。この方角が南だから。」 多少心もちの明くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂の底にある巻煙草の箱を探っていた。「そら、そこに東枕にてもよろし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡をかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋ねていました。「じゃそのお松と言う女はどうしたんです?」「お松ですか? お松は半之丞の子を生んでから、……」「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・何か縫ものをしていた母は老眼鏡の額越しに挿絵の彩色へ目を移した。彼は当然母の口から褒め言葉の出るのを予期していた。しかし母はこの彩色にも彼ほど感心しないらしかった。「海の色は可笑しいねえ。なぜ青い色に塗らなかったの?」「だって海はこ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・この奥さんは僕を見ると、老眼鏡をはずして挨拶しました。「こちらの椅子をさし上げましょうか?」「いえ、これで結構です。」 僕はちょうどそこにあった、古い籐椅子にかけることにしました。「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・「まだ私は老眼鏡には早過ぎる――ヤ、これは驚いた――こう側へ寄せたよりも、すこし離した方が猶よく見えますナ――広岡先生、いかが」「成程、よく見えます」「ヒドイものですナ――」 こんな話をしても、時は楽しく過ぎた。 近くて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・容貌について言うなれば、額は広く高く、眉は薄く、鼻は小さく、口が大きくひきしまり、眉間に皺、白い頬ひげは、ふさふさと伸び、銀ぶちの老眼鏡をかけ、まず、丸顔である。」なんのことはない、長兄の尊敬しているイプセン先生の顔である。長兄の想像力は、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・北さんは、通路をへだてて一つずつ、やっと席をとった。北さんは、老眼鏡を、ひょいと掛けて新聞を読みはじめた。落ちついたものだった。私はジョルジュ・シメノンという人の探偵小説を読みはじめた。私は長い汽車の旅にはなるべく探偵小説を読む事にしている・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・と祖母は帯の間から老眼鏡を取り出し、末弟のお伽噺を小さい声を出して読みはじめた。くつくつ笑い出して、「おやおや、この子は、まあ、ませた事を知っているじゃないか。面白い。よく書けていますよ。でも、これじゃ、あとが続かないね。」「あたりまえ・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ またある日私の先輩の一人が老眼鏡をかけた見馴れぬ顔に出会した。そして試みにその眼鏡を借りて掛けて見ると、眼界が急に明るくなるようで何となく爽やかな心持がした。しばらくかけていて外すと、眼の前に蜘蛛の糸でもあるような気がして、思わず眼の・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木が植付けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸禅榻の歎をなすもの・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
出典:青空文庫