・・・おれは眇たる一平家に、心を労するほど老耄れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好い。おれは一巻の経文のほかに、鶴の前でもいれば安堵している。しかし浄海入道になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味に思うているのじゃ。し・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 十 断念めかねて、祖母が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句の果が、「老耄婆め、帰れ。」 と言って、ゴトンと閉めた。 祖母が、ト目を擦った帰途。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・……早い処が、はい、この八ツ目鰻の生干を見たような、ぬらりと黒い、乾からびた老耄も、若い時が一度ござりまして、その頃に、はい、大い罪障を造ったでござります。女子の事でござりましての。はい、ものに譬えようもござりませぬ。欄間にござる天女を、蛇・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・東片町時代には大分老耄して居睡ばかりしていたが、この婆さん猫が時々二葉亭の膝へ這上って甘垂れ声をして倦怠そうに戯れていた。人間なら好い齢をした梅干婆さんが十五、六の小娘の嬌態を作って甘っ垂れるようなもんだから、小※啼きながら頻りと身体をこす・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・どうせ、この老耄はくたばるのだからいいけれど、そうした道理というものはないはずじゃ。もう私は歩けないが、どこか近所に、お医者さまはありますかい。」と、老人は、やっと小さな荷物をせおってから、ききました。「じき、すこしゆくとにぎやかな町に・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・しかし老人は真面目で「私も自分の死期の解らぬまでには老耄せん、とても長くはあるまいと思う、其処で実は少し折入って貴公と相談したいことがあるのじゃ」 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声が聞え折々寂と静まり。又折々老人の咳・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・草田氏をはじめ、その中泉という老耄の画伯と、それから中泉のアトリエに通っている若い研究生たち、また草田の家に出入りしている有象無象、寄ってたかって夫人の画を褒めちぎって、あげくの果は夫人の逆上という事になり、「あたしは天才だ」と口走って家出・・・ 太宰治 「水仙」
・・・ これらの不平はみんな、つまり自分がだんだん老耄して来て頭が古くなり、感激性が麻痺したせいかもしれない。しかしそうばかりでもないかもしれないと思うことは、一体二科会とか美術院とかいう展覧会が十年も二十年も継続しているという不思議な事実自・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ 毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如璋の揮毫した東坡の絶句が懸けられるので、わたくしは老耄した今日に至ってもなお能く左の二十八字を暗記している。梨花淡白柳深青 〔梨花は淡白にして柳は深青柳絮飛時花・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・そして疾病と老耄とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗妙である。コノ稿ハ昭和七・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
出典:青空文庫