・・・そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃の一むらが、……… 陳はまっ暗な外の廊下に、乾いた唇を噛みながら、一層嫉妬深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度床に響いたからであった。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 母という名を聞くやいなや女はにわかに聞き耳立てて、「え、お母さんが」「むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかり惚れていたのだ」「あら、まあ、伯父さん」「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・なにかきこえると聴耳をたてはじめてから、それが一つの可愛いリズムだと思い当てたまでの私の気持は、緊張と云い喜びというにはあまりささやかなものでした。然し一時間前の倦怠ではもうありませんでした。私はその衣ずれのようなまた小人国の汽車のような可・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・私はその返事のバスに人ごとながら聴耳をたてたが、相不変曖昧な言葉が同じように鈍い調子で響くばかりで、やがて女はあきらめたようすでいなくなってしまった。 私は静かな眠った港を前にしながら転変に富んだその夜を回想していた。三里はとっくに歩い・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・徳二郎はちょっと立ち止まって聞き耳を立てたようであったが、つかつかと右なるほうの板べいに近づいて向こうへ押すと、ここはくぐりになっていて、黒い戸が音もなくあいた。見ると、戸にすぐ接して梯子段がある。戸があくと同時に、足音静かに梯子段をおりて・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・この時二階の笑声もぴたり止んで、下を覗がい聞耳をたてている様子。自分は狼狽えて言葉が出ない。もじもじしていると台所口で「お待遠さま」という声がした。母は、「お光、お光お鮨が来たよ」と呼んだ。お光は下りて来る。格子が開いたと思うと「今日は・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 暫時聴耳を聳て何を聞くともなく突立っていたのは、猶お八畳の間を見分する必要が有るかと疑がっていたので。しかし確に箪笥を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変はない。縁・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処に蹲居んでいることは無論気がつかない。「だって貴様は富岡のお梅嬢に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。「嘘サ、大・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 俺は音をたてないように、室の中を歩きまわり、壁をたゝいてみ、窓から外をソッと覗いてみ、それから廊下の方に聞き耳をたてた。 誰か廊下を歩いてゆく。立ち止まって、その音に何時でも耳をすましていると、急にワクワクと身体が底から顫えてくる・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ と高瀬は聞耳を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行った。お島が庭口へ下りて戸を開けた時は、広岡学士と体操教師の二人が暗い屋外から舞い込むようにやって来た。 高瀬は洋燈を上り端のところへ運んだ。馬場裏を一つ驚かしてくれよう・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫