・・・安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と白服を着た職人が聞く。髯を剃るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋髯だけかわからない。まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・する事の無い職人の真似もしてみた。皆駄目だ。も一つ足なしになって尻でいざると云うのがあるが、爺いさん、あれはおめえやらないがいいぜ。第一道具がいる。それに馬鹿に骨が折れて、脚が引っ吊って来る。まあ、やっぱり手を出して一文貰うか、パンでも貰う・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 数年前英国にて下院を改革し、下等の人民までも議院の事に参与するの法を定めたりしに、その時にあたりて識者の考に、今後議院の権は役夫・職人の手に帰し、あるいは害あるべしといい、あるいは益あるべしといい、議論喋々たりしが、その成跡を見れば、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人が頻りに目につくから、どんな奴が熊手なんか買うか試に人相を鑑定してやろうと思うて居ると、向うから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人であろうか、しかし善く分らぬ。月が後・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・「なるほど、紫紺の職人はみな死んでしまった。生薬屋のおやじも死んだと。そうしてみるとさしあたり、紫紺についての先輩は、今では山男だけというわけだ。よしよし、一つ山男を呼び出して、聞いてみよう。」 そこで工芸学校の先生は、町の紫紺染研・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・だから、ひとつひとつ切りはなしていわれていることだけについてみれば、みんな何かの角度で当時の狭くるしくて、職人風な「文壇」の否定であった。せまくるしい文壇文学・私小説の枠をやぶって発展したいという文学者自身の要求にそくして云われているかのよ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・ここには石浦というところに大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人なら幾らでも買う。宮崎は・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・リンツマンの檀那と云うのは鞣皮製造所の会計主任で、毎週土曜日には職人にやる給料を持ってここを通るのである。 この檀那に一本お見舞申して、金を捲き上げようと云う料簡で、ツァウォツキイは鉄道の堤の脇にしゃがんでいた。しかしややしばらくしてツ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・あの職人さんほどいいお金儲けをする人はないっていうし。」 そう口を入れたのはませた姉である。「そうだ、それも好いな。」 と父親は言った。 母親だけはいつまでも黙っていた。 吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子の酒瓶が眼に・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫