・・・妻が必ず職業婦人になって、夫の収入に加えねばならぬというのではない。働く腕、金をとる才能のあることがかえって夫婦愛を傷つける場合は少なくないし、またあまりそういう働きのあるような婦人は、愛が濃やかでなく、すべて受身でなく可愛らしげがないとい・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 職業紹介所の帰りだった。お君はフト電信柱に、「共産党の公判が又始まるぞ。ストライキとデモで我等の前衛を奪カンせよ!」と書かれているビラを見た。ストライキとデモで……お君は口の中でくりかえして見た……我等の前衛を奪カンせよ。――日本中の・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・この度の出京はそれとなく職業を捜す為でもある。不安の念は絶えず原の胸にあった。「では失礼します。君も御多忙でしょうから」原は帽子を執って起立った。「いずれ――明日――」「まあ、いいじゃないか」と相川は眉を揚げて、自分で自分の銷沈した・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ もちろんかような問題に関した学問も一通りはした、自分の職業上からも、かような学問には断えず携わっている。その結果として、理論の上では、ああかこうかと纏まりのつくようなことも言い得る。また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすで・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ただ一般に苦しい押え付けられているような感じ、職業のないために生じて来たこの感じより外には、人に分けてやるような物を持っていないのである。この感じは四辺を一面に覆うている白い雪と同じように、果もなく単調な無事を表しているだけである。 し・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・私が少しでも、あなたに関心を持っているとしたら、それはあなたの特異な職業に対してであります。市民を嘲って芸術を売って、そうして、市民と同じ生活をしているというのは、なんだか私には、不思議な生物のように思われ、私はそれを探求してみたかったとい・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓いてゆくべき欲求も苦悶もなさすぎるようにさえ感ぜられた。兄の話では、今の仕事が大望のある青年としてはそう有望のものではけっしてないのだとのことであった。で、私がこのごろ二十五六年ぶりで・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 茲で一寸話が大戻りをするが、私も十五六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学というものを面白く感じ、自分もやって見ようという気がしたので、それを亡くなった兄に話して見ると、兄は文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメントに過ぎないもの・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
出典:青空文庫