・・・代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその肥満女と、家蔵を売って行方知れず、……下男下女、薬局の輩まで。勝手に掴み取りの、梟に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が貼られた。寂とした暮方、……空地の水溜を町の用心水・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ましてやその他の月卿雲客、上臈貴嬪らは肥満の松風村雨や、痩身の夷大黒や、渋紙面のベニスの商人や、顔を赤く彩ったドミノの道化役者や、七福神や六歌仙や、神主や坊主や赤ゲットや、思い思いの異装に趣向を凝らして開闢以来の大有頂天を極めた。 この・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・安二郎はもう五十になっていたが、醜く肥満して、ぎらぎら油ぎっていた。相変らず、蓄財に余念がなかった。お君が豹一に小遣いを渡すのを見て、「学校やめた男に金をやらんでもええやないか」 そして、お君が賃仕事で儲ける金をまきあげた。豹一が高・・・ 織田作之助 「雨」
・・・そろそろ肥満してきた登勢は階段の登り降りがえらかったが、それでも自分の手で運び、よくよく外出しなければならぬ時は、お良の手を煩わし女中には任さなかった。 もうすっかり美しい娘になっていたお良は、女中の代りをさせるのではないが坂本さんは大・・・ 織田作之助 「螢」
・・・そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗をするばかり・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・中学の終りからテニスを始めていたぼくは、テニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで、長身、肥満、W高等学院、自涜の一年を消費した後、W大学ボート部に入りました。一年後ぼくはレギュラーになり、二年後、第十回オリンピック選手としてアメリカに行き・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・もはや、かの肥満、醜貌の大バルザックになるより他は無い。ほんとうは、若いままで死にたいのだが、ああ、死にたいのだが、ままにならない。よろめき、つまずき、立ち上り、昨今、私はたいへんな姿である。そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ひどく肥満した土地の先生らしいのが、逆上して真赤になって、おれに追い附いた。手には例の包みを提げている。おれは丁寧に礼を言った。肥満した先生は名刺をくれておれと握手した。おれも名刺を献上した。見物一同大満足の体で、おれの顔を見てにこにこして・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・あるちょっとした腫物を切開しただけで脳貧血を起して卒倒し半日も起きられなかった大兵肥満の豪傑が一方の代表者で、これに対する反対に気の強い方の例として挙げられたのは六十余歳の老婆であった。舌癌で舌の右だか左だかの半分を剪断するというので、麻酔・・・ 寺田寅彦 「追憶の医師達」
・・・丁度、私が紐育の或大学寄宿舎に居た時日々顔を合わせたような、肥満した二重顎の婦人達ばかり、スカートをパッと拡げて居るのである。 隠れ乍らも、私の心は、深い悲哀に満されて居る。男を追って走り去った赤い洋服の娘のことが心掛りで仕方ないのであ・・・ 宮本百合子 「或日」
出典:青空文庫