・・・尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰えるとはこのためである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通の理を解せんのである。 作家は造物主である。造物主である以上は評家の予期するものばかり・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・これは一般の法則でないという処から、習慣的に続いて来た幕府というものを引っ繰り返したというのは、その引っ繰り返るという時の人の胸中に同情があって、その同情を惹き起すという事が出来なければ、あれは成功は出来ないのである。だから徒にインデペンデ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・産無教育なる故にこそ人の家に雇わるゝことなれば、主人たる者は其人物如何に拘らず能く之を教え之を馴らし、唯親切を専らにして夫れ/″\の家事に当らしむると同時に、到底自分の思う通りにはならぬものと最初より胸中に覚悟して多を望む可らず。此れも下女・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・その内実は風波の動揺を互いの胸中に含むものというべし。されば、男尊女卑、主公圧制、家人卑屈の組織は、不品行の家に欠くべからざるの要用にして、日々夜々、後進の子女をこの組織の中に養育することなれば、その子女後年の事もまた想い見るべし。我輩の特・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気を脱して世に媚びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰く吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでいられるでしょうか。そうでなければ無理に口を横に大きくしたり、わざと額をしかめたりしてそれをごまかしているのです。(コロナは六十三万二百 ※‥‥‥ ・・・ 宮沢賢治 「イーハトーボ農学校の春」
・・・そしてまた、文化・文学の活動にたずさわる人々の胸中には、言葉にあらわしきれない未来への翹望がある。それにもかかわらず、なんだか、前進する足場が思うように工合よく堅くない。すべり出しの足がかりがはっきりしない感じがあるのではなかろうか。自身に・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・出るにつけ入るにつけ、その四分板の大文字を見て暮す家人の胸中はどうであろう。悲しみを常に新たにされるというばかりでなく、ああいう標は、いろんないかさま師に何か思いつかせるきっかけになるのではないかと、その家に残っている女の人々の日常の感じが・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
・・・ そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠り・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。 自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫