・・・と、一生懸命に問いかけますと、能弁な泰さんは、「それがさ、」とゆっくり前置きをして、「何しろあんな内気な女が、二三度会ったばかりの僕の所へ、尋ねて来ようと云うんだから、よくよく思い余っての上なんだろう。そう思うと、僕もすっかりつまされてしま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ウイスキイの酔もあり、また、汽車の速度にうながされて、嘉七は能弁になっていた。「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・今夜はなかなか能弁だね。 ――笑いごとではないのです。そのような奇妙な、『ヴァイオリンよりは、ケエスが大事式』の、その方面に於ける最もきびしい反省をしてみるのでした。江の島の橋のたもとに、新宿へ三十分、渋谷へ三十八分と、一字一字二尺平方・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・杉浦は実に能弁の人であった。トランクなどをさげて、夜おそく勝治の家の玄関に現れ、「どうも、また、僕の身辺が危険になって来たようだ。誰かに尾行されているような気もするから、君、ちょっと、家のまわりを探ってみて来てくれないか。」と声をひそめて言・・・ 太宰治 「花火」
・・・びび数千言と云うとむやみに能弁にしゃべるように聞こえてわるいが、時間から云えば、こんな形容詞でも使わなくってはならなくなるくらい論じていた。その知識の詳密精細なる事はまた格別なもので、向って左のどの辺に誰がいて、その反対の側に誰の席があるな・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・敢て謹聴するに足る程の能弁でも無いのに、よくのさばり出て遣った。つまらないから僕等聞いてもいないが、先生得意になってやる。 何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった。二人で道を歩いていても、きっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したも・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・しかし非常な能弁家で、彼の舌の先から唾液を容赦なく我輩の顔面に吹きかけて話し立てる時などは滔々滾々として惜い時間を遠慮なく人に潰させて毫も気の毒だと思わぬくらいの善人かつ雄弁家である。この善人にして雄弁家なるベッジパードンは倫敦に生れながら・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・そんな時には常蒼い顔に紅が潮して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱になって頭を低れ手を拱いて黙っている。 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕平穏な時がな・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫