・・・「撲られに帰るのに、あわてて帰る奴がいるものか」 しかし急がねば遅れる。遅れたが最後無事には済むまい。「脱走したくなるのはこんな時だなア」 降るような星空を仰いで、白崎は呟いた。「ほんまに、そやなア」 赤井は隊の外へ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・「絶対に秘密にして置いて下さい。脱走事件です。」と署長は言う。 警察の留置場から誰か脱走したのだろう、と私は、はじめはそう思いました。黙って、次の説明を待っていました。「たぶん、この町には、先例の無かった事でしょう。あなたの御親・・・ 太宰治 「嘘」
・・・十年前だったら、私はゆうべもう半狂乱で脱走してしまっていたでしょう。自殺したかも知れません。外八文字は、私がお詫びを言ったら、不機嫌そうに眉をひそめてちょっと首肯きました。たいへん、もったいぶっています。私は、もう此の女とは一言も口をきくま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・この闇の中の一寸歩きに、ほとほと根も尽き果て、五月のはじめ、あり金さらって、旅に出た。この脱走が、間違っていたら、殺してくれ。殺されても、私は、微笑んでいるだろう。いま、ここで忍従の鎖を断ち切り、それがために、どんな悲惨の地獄に落ちても、私・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・「脱走する気だね。」「でも、あたし、お金がないの。」 三木は、ちらと卑しく笑い、そのまま頭をたれて考えた。ずいぶん大袈裟な永い思案の素振りであった。ふと顔をあげて、「十円あげよう。」ほとんど怒っているような口調で、「君は、ば・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ われら生き伸びてゆくには、二つの途のみ。脱走、足袋はだしのまま、雨中、追われつつ、一汁一菜、半畳の居室与えられ、犬馬の労、誓言して、巷の塵の底に沈むか、若しくは、とても金魚として短きいのち終らむと、ごろり寝ころび、いとせめて、油多・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、いかにしてこの恐ろしい災厄を遁るべきかを考えた。脱走? それもいい、けれど捕えられた暁には、この上もない汚名をこうむったうえに同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争の巷の人とならなければならぬ。戦・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道を掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ始末したか、全く奇蹟的で少なくも物質不滅を信ずる科学者には諒解出来ない。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ 戦争後に流行した茶番じみた滑稽物は漸くすたって、闇の女の葛藤、脱走した犯罪者の末路、女を中心とする無頼漢の闘争というが如きメロドラマが流行し、いずこの舞台にもピストルの発射されないことはないようになった。 戦争前の茶番がかった芝居・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・(今年数十名の藩士が脱走して薩に入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余然りといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患なきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極とな・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫