・・・ 彼は燐寸の箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。 暗闇に点され・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・という第一の資格も欠けているようだし、即ち何となく心に安んじないのである。それに三円ということは自分も知らなかったのだ、その点は此方が悪いような気もするので、「困ったものだ」と腕組して暫く嘆息をしていたが、「自分で勝手に下宿屋を行っ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 自分は腕組みして熟っとしていたが、我母ながらこれ実に悪婆であるとつくづく情なく、ああまで済ましているところを見ると、言ったところで、無益だと思うと寧そのこと公けの沙汰にして終おうかとの気も起る。然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・に駒なきわれは何と答えんかと予審廷へ出る心構えわざと燭台を遠退けて顔を見られぬが一の手と逆茂木製造のほどもなくさらさらと衣の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・何等の遠い慮もなく、何等の準備もなく、ただただ身の行末を思い煩うような有様をして、今にも地に沈むかと疑われるばかりの不規則な力の無い歩みを運びながら、洋服で腕組みしたり、頭を垂れたり、あるいは薄荷パイプを啣えたりして、熱い砂を踏んで行く人の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・と、ひどく尊大な口調で言い、さも、分別ありげに腕組みをした。「もういいんだ。僕は、熊本なんかに、ものを頼みたくないんだ。」佐伯は、急に立ちあがった。「僕は、帰るぞ。」「待て、待て。」私も立ち上って、佐伯を引きとめた。「君には、帰ると・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・八百屋の小僧が、いま若旦那から聞いて来たばかりの、うろ覚えの新知識を、お得意さきのお鍋どんに、鹿爪らしく腕組して、こんこんと説き聞かせているふうの情景が、眼前に浮んで来たからである。けれども、とまた、考える。その情景、なかなかいいじゃないか・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・私は、旦那様のようにちゃんと座蒲団に坐って、腕組みしている。「けれども、それは、僕にとって、いのちのよろこびにはならない。死ぬる刹那の純粋だけは、信じられる。けれども、この世のよろこびの刹那は、――」「あとの責任が、こわいの?」 K・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶいれていたのである。 太宰治 「新樹の言葉」
・・・僧院の廊下へはいって見ると、頭を大部分剃って頂上に一握りだけ逆立った毛を残した、そして関羽のような顔をした男が腕組みをしてコックリコックリと廊下を歩いている。黙っておこったような顔をしてわき目もふらず歩いて行ってまた引き返して来る。……異国・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫