・・・店の食卓も、腰掛も、昔のままだったけれど、店の隅に電気蓄音機があったり、壁には映画女優の、下品な大きい似顔絵が貼られてあったり、下等に荒んだ感じが濃いのであります。せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・襟の包みは丁寧に自動車の腰掛の下へしまっておいて下りた。おれだって、あしたはきっと戻って来るとは知っている。ホテルへ乗って帰る車の中に物を置けば、それが翌日は帰って来るということが分からないのではない。とにかく今夜一晩だけでもあの包みなしに・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そうして頂上の峠の海抜九百五十メートルまで、実に四百五十メートルの高さをわずかの時間の間に客車の腰掛に腰かけたままで上昇する。そうして普通の上空気温低下率から計算しても約摂氏五度ほどの気温降下を経験する。それで乗客の感覚の上では、恰度かなり・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・他の芝居へ出ているものや、地方興行から帰って来た人たちが、内のものを呼び出して、出入口の戸や壁に倚りかかって話をしている事もあるし、時侯が暑くなると舞台で使う腰掛を持出して、夜昼となく大勢交る交るに腰をかけて、笑い興じていることもあったが、・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・あのアポルロの石像のある処の腰掛に腰を掛ける奴もあり、井戸の脇の小蔭に蹲む奴もあり、一人はあのスフィンクスの像に腰を掛けました。丁度タクススの樹の蔭になって好くは見えません。主人。皆な男かい。家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・その店の前に腰掛けて居る三十余りのふっくりと肥えた愛嬌の女が胸を一ぱいにあらわして子供に乳を飲ませて居る。子供は赤いちゃんちゃんを着て居る。その傍に並んで腰を掛けて居るのが五十位の女で、この女がしきりに何かをしゃべって居るらしい。 その・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・くろへ腰掛けてこぼこぼはっていく温い水へ足を入れていてついとろっとしたらなんだかぼくが稲になったような気がした。そしてぼくが桃いろをした熱病にかかっていてそこへいま水が来たのでぼくは足から水を吸いあげているのだった。どきっとして眼をさました・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 気取って、金縁の椅子等を置いたのではなく、大きなやや古風なファイア・プレースでもあり、埋まってしまうような大椅子、長椅子があり、気持のよい出窓の下の作りつけ腰掛。ヴェランダ。片隅の便利な茶卓子。床の上には色の凝ったカーペット二つ三つ。・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・ この広間に白木の長い卓と長い腰掛とが、小道具として据え附けてある。これは不断片附けてある時は、腰掛が卓の上に、脚を空様にして載せられているのだが、丁度弁当を使う時刻なので、取り卸されている。それが食事の跡でざっと拭くだけなので、床と同・・・ 森鴎外 「食堂」
五、六年前のことと記憶する。ある夜自分は木下杢太郎と、東京停車場のそのころ開かれてまだ間のない待合室で、深い腰掛けに身を埋めて永い間論じ合った。何を論じたかは忘れたが、熱心に論じ合った。二人の意見がなかなか近寄って来なかった。そこを出・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫