・・・僕は床の上に腹這いになり、妙な興奮を鎮めるために「敷島」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を醒ましているのはどうも無気味でならなかった。 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這いながら、じりじり敵前へ向う事になった。 勿論江木上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」――そう云う堀尾一等卒の言葉は、同時・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・ 瓜畑を見透しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭もかくしながら、土地の赤新聞というのを、鼻の下に敷いていたのが、と見る間に、二ツ三ツ団扇ばかり動いたと思えば、くるりと仰向けになった胸が、臍・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。と仰向けに起き・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・彼は、さっきから、腹這いになって、二重硝子の窓から、向うの丘の方を見ていたのであった。丘は起伏して、ずっと彼方の山にまで連なっていた。丘には処々草叢があり、灌木の群があり、小石を一箇所へ寄せ集めた堆があった。それらは、今、雪に蔽われて、一面・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・十一時頃、やっとお目ざめになり、新聞ないかあと言い、寝床に腹這いになりながら、ひとしきり朝刊の検閲をして、それから縁側に出て支那の煙草をくゆらす。「鬚を、剃らないか。」私は朝から何かと気をもんでいたのだ。「そんな必要も無いだろう。」・・・ 太宰治 「佳日」
・・・十五歳八歳当歳の寝息を左右に聞きながら蒲団の中、腹這いのままの無礼を謝しつつ。田所美徳。太宰治様。」「拝啓。歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。上田など小生一高時代からの友人ですが、人間的に実にイヤな奴です。而るに吉田潔なるものが・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は、いま、ベッドに腹這いになって、鉛筆をなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかり苦しくなって、そうして、枕元の水仙の花を見つめて居ります。電気スタンドの下で水仙の花が三輪、ひとつは右を向き、ひとつは左を向き、もう・・・ 太宰治 「古典風」
・・・夜中でも、目が覚めさえすれば、すぐに寝床に腹這いになって、ぽんぽん火鉢をたたいてみます。あさましい姿です。畳を爪でひっかいてみます。なるべく聞きとりにくいような音をえらんでやってみるのです。人がたずねて来ると、その人に大きな声を出させたり、・・・ 太宰治 「水仙」
出典:青空文庫