・・・――君、佐竹の自尊心の高さを考えると、僕はいつでもぞっとするよ」ビイルのコップを握ったまま、深い溜息をもらした。「けれども、あいつの画だけは正当に認めなければいけない」 私はぼんやりしていた。だんだん薄暗くなって色々の灯でいろどられてゆ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰く、事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑しく馬鹿らしい思いがし・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・人おのおの、不抜の自尊心のほどを、思いたまえ。しかるに受賞者の作品を一読するに及び、告白すれば、私、ひそかに安堵した。私は敗北しなかった。私は書いてゆける。誰にも許さぬ私ひとりの路をあるいてゆける確信。 私、幼くして、峻厳酷烈なる亡父、・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・そんな一少女の出奔を知己の間に言いふらすことが、彼の自尊心をどんなに満足させたか。私は彼の有頂天を不愉快に感じ、彼のテツさんに対する真実を疑いさえした。私のこの疑惑は無残にも的中していた。彼は私にひとしきり、狂喜し感激して見せた揚句、眉間に・・・ 太宰治 「列車」
・・・暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。軍律を厳守することでも、新兵を苛めることでも、田舎に帰って威張ることでも、すべてにおいて、原田重吉は模範的軍・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・原因は、男の強大な主我主義と肉情によって、アンネットは自分が彼の愛人として人格的に陥りかかっている屈辱の深淵を見透し、自分の健康な自尊心をとりかえさずにいられなくなったのであった。――アンネットが確実に彼のものとなった後、彼は、アンネットの・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・「私はあなたの自尊心のために、そこいら中の壁をこわしてはいられない。換気設置は次の四半期にします。もう決定していることですよ。」「俺をやっつけることをやめたくないのか? え? 自分の意志が見せたいのかい? 思うにそいつは意志じゃない・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ 漱石やその後のある時期まで、作家の社会性の弱さは、むしろ彼等の芸術家的自尊心、文化、文学の独善的な価値評価に現れていた。例えば漱石にしろ、文学のことがききたければ、そちらから出向いてくれと時の宰相に対しても腹で思っている作家的気魄があ・・・ 宮本百合子 「「大人の文学」論の現実性」
・・・俳優の生活は旧套の中から既に舞台芸術家として、新しい生活方法に入っている前進座のような実例がありますが、音楽家には、ここで俳優と並べて云うことさえ無礼であると感じられるような、遅れた自尊心、個人的な見解が強くのこっているのではないでしょうか・・・ 宮本百合子 「期待と切望」
・・・小学卒業したまま製糸工場の寄宿舎へつれて来られた小さい女の子たちは自分たちのおかれている悪事情さえ意識できない程度であるが、女学校以上専門学校出の職業婦人は、この点では敏感であり、人間としての自尊心もある。社会事情はその人間的なものを苦しめ・・・ 宮本百合子 「現実の道」
出典:青空文庫