・・・悲観する人はここに至って自棄する。微分を知っていっさいを知らざれば知るもなんのかいあらんやと言って学問をあざけり学者をののしる。 人間とは一つの微分である。しかし人知のきわめうる微分は人間にとっては無限大なるものである。一塊の遊星は宇宙・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・一度男にだまされて、それ以来自棄半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので、カッフェーの給仕女としてはまず品の好い方だと思われた。 以上の観・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ そんな自棄を云うもんじゃないよ。それよりも、おとなしく『合意雇止め』にしてやるから、ボーレンで一ヵ月も休んで、傷を癒してから後の事は、又俺でも世話をしてやるからな。お前見たいな風に出ちゃ損だよ。長いものには巻かれろってことがあるだろう。な・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす気になって、自棄に踏みつけた。 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはこう書いてあった。 ――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・この答えに対して、少年らの胸中には、おのずから別な訴えと自棄とが活きて、羽ばたいて、彼らを、脱走へそそり立てるのではないだろうか。それなら、この社会では、誰でもみんな勤労しているのか? 働けば働いただけきっと幸福になっている世の中だとでもい・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・の作者が、どのような内心の憤激と自棄にかられてあの作をかいたか分らないけれども、もし、真面目にそれらの社会的腐敗を作家として問題にするのであれば、全く別のやりかたでされなければならなかったであろうと思う。ブルジョア文壇に悪行があるとすればそ・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・肩の骨をだして髪をふりながら自棄に鳴らしている。 長椅子の上では、やっと大人になりかけた若者――ゲルツェンの家の地下室へ来ているからには、いずれソヴェト作家の卵だろう――が、女をひとりずつつかまえて、顔の筋をのばしている。彼等の前には、・・・ 宮本百合子 「ソヴェト文壇の現状」
・・・ 破産までさせられて、自棄になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。 いったいどこか・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 彼は、自分を喰い殺して仕舞い度い程の、いまいましさと自放(自棄を感じた。 散々叫びつづけ、鳴きつづけて喉もかれがれになると、彼はあきらめた様にだまり返って仕舞った。 そして、今の有様の体を少しでも楽にさせるために、ぴったり・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・ ネフリュードフに悪態をつくところ、牢獄でウォツカをあおって売笑婦の自棄の姿を示すとき、山口淑子は、体の線も大きくなげ出して、所謂ヴァンパイアの型を演じる。けれども、最後の場面で、政治犯でシベリアに流刑される人々にまじったカチューシャが・・・ 宮本百合子 「復活」
出典:青空文庫