・・・頬の肉が落ちているので、顔の大きさが、青年自身の手の平ほどに見える。この青年がなんと思ったか、ちぢれた髪の上に被っていた鳥打帽を脱いで、それを高く差し伸べた手に持って岸に掛かっている船に向けて振り動かした。そして可笑しな叫声を出した。喜びの・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 厩頭は自身でたしかめにいきました。そうすると、ほんとうにウイリイの部屋から灯がもれていました。 ウイリイは、人が来たのを感づいて、急いで羽根をかくしました。それで厩頭がはいって来たときには、部屋の中はまっ暗になっていました。 ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・淋しいスバーと同じように、彼女自身満月の自然は、凝っと眠った地上を見下しています。スバーの若い健やかな生命は、胸の中で高鳴りました。歓びと悲しさとが、彼女の身も心も、溢れるばかりに迫って来る。スバーは、際限のない自分の寂しささえ超えて恍惚と・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・何かのメモのつもりであろうが、僕自身にも書いた動機が、よくわからぬ。 窓外、庭ノ黒土ヲバサバサ這イズリマワッテイル醜キ秋ノ蝶ヲ見ル。並ハズレテ、タクマシキガ故ニ、死ナズ在リヌル。決シテ、ハカナキ態ニハ非ズ。と書かれてある。 これを書・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ ドリス自身には、技芸の発展が出来なくて気の毒だのなんのと云ったって、分からないかも知れない。結構ずくめの境界である。崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つわないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。 ドリスは可哀らし・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、ほかに物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱れたいと思った。 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。 黎明に兵站部の軍医が来た。けれどその・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・その時の印象が彼の後年の仕事にある影響を与えたという事が彼自身の口から伝わっている。 丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移転した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接すること・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思っていた。私の子供たちはまた彼ら自身であればいいわけであった。そして若い時から兄夫婦に育てられていた義姉の姪に桂三郎という養子を迎えたからという断・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しかるに彼ら閣臣の輩は事前にその企を萌すに由なからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十で綺麗に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・要するに厭世的なるかかる詭弁的精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた一種の病弊である事は、彼自身もよく承知しているのである。承知していながら、決して改悛する必要がないと思うほど、この病弊を芸術的に崇拝しているのである。されば賤業・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫