・・・ そして、眼を閉じて、ぷんと異様な臭いのする盃を唇へもって行き、一息にぐっと流し込んだ。急にふらふらっと眩暈がした咄嗟に、こんな夫婦と隣り合ったとは、なんという因果なことだろうという気持が、情けなく胸へ落ちた。 翌朝、夫婦はその温泉・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・如何にも死人臭い匂がもう芬と鼻に来る。 飲んだわ飲んだわ! 水は生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得草に、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上活くべしと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・嘔吐を催させるような酒の臭い――彼はまだ酔の残っているふら/\した身体を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。 朝飯を済まして、書留だったらこれを出せと云って子供に認印・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「そんな病弱な、サナトリウム臭い風景なんて、俺は大嫌いなんだ」「雲とともに変わって行く海の色を褒めた人もある。海の上を行き来する雲を一日眺めているのもいいじゃないか。また僕は君が一度こんなことを言ったのを覚えているが、そういう空・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・外は夕闇がこめて、煙の臭いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車の轍の響が喧しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 現代では、日本の新しい女性は科学と芸術とには目を開いたけれども、宗教というものは古臭いものとして捨ててかえりみなかったが、最近になって、またこの人性の至宝ともいうべき宗教を、泥土のなかから拾いあげて、ふたたび見なおし、磨き上げようとす・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ところが源三と小学からの仲好朋友であったお浪の母は、源三の亡くなった叔母と姉妹同様の交情であったので、我が親かったものの甥でしかも我が娘の仲好しである源三が、始終履歴の汚れ臭い女に酷い目に合わされているのを見て同情に堪えずにいた上、ちょうど・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・そんな連中は入ってくると、臭いジト/\したシャツを脱いで、虱を取り出した。真っ黒なコロッとした虱が、折目という折目にウジョ/\たかっていた。 一度、六十位の身体一杯にヒゼンをかいたバタヤのお爺さんが這入ってきたことがあった。エンコに出て・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・一度打つたびに臭い煙が出て、胸が悪くなりそうなのを堪えて、その癖その匂いを好きな匂いででもあるように吸い込んだ。余り女が熱心なので、主人も吊り込まれて熱心になって、女が六発打ってしまうと、直ぐ跡の六発の弾丸を込めて渡した。 夕方であった・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫