始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。自分は山の手の書斎の沈静し・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・しばらくして君とわれの間にあまれる一尋余りは、真中より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒めたり。醒めたるあとにもなお耳を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭い部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・素人臭い句ではあるが「酒載せて」の句よりは善いようだ。これほど考えて見ながら運坐の句よりも悪いとは余り残念だからまた考えはじめた。この時験温器を挟んで居る事を思い出したから、出して見たが卅八度しかなかった。 今度は川の岸の高楼に上った。・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・そしてその仕事をまじめにしているともう考えることも考えることもみんなじみな、そうだ、じみというよりはやぼな所謂田舎臭いものに変ってしまう。ぼくはひがんで云うのでない。けれどもぼくが父とふたりでいろいろな仕事のことを云いながらはたらいてい・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 胸元から大きな丸いものがこみ上げて来る様な臭いの眠り薬、恐しげに光る沢山の刃物、手術のすみきらない内に、自然と眠りが覚めかかってうめいた太い男の声、それから又あの手を真赤にして玩具をいじる様に、人間の内実をいじって居た髭むじゃな医者の・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・廐の臭いや牛乳の臭いや、枯れ草の臭い、及び汗の臭いが相和して、百姓に特有な半人半畜の臭気を放っている。 ブレオーテの人、アウシュコルンがちょうど今ゴーデルヴィルに到着した。そしてある辻まで来ると、かれは小さな糸くずが地上に落ちているのを・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・木村は給仕とただ二人になって、ゆっくり書類を戸棚にしまって、食堂へ行って、ゆっくり弁当を食って、それから汗臭い満員の電車に乗った。 森鴎外 「あそび」
・・・たまたま強い香気があるとすれば、それはコケおどしに腐心する山気の匂いであり、筆先の芸当に慢心する凝固の臭いであって、真に芸術家らしい独自な生命燃焼の匂いではない。もしこの種の外形的な努力が反省なしに続けて行かれるならば、日本画は低級芸術とし・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫