・・・『もう店の戸を引き寄せて置きな、』と主人は怒鳴って、舌打ちをして、『また降って来やあがった。』と独言のようにつぶやいた。なるほど風が大分強くなって雨さえ降りだしたようである。 春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。「逃げるな!」 ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。 何か、・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・健二は思わず舌打ちをした。「放したところで、取られるものはどうせ取られるやら知れんのじゃ。」親爺は、宇一にさほど反感を持っていないらしかった。寧ろ、彼も放さない方がいゝ、とも思っているようだった。「あいつの云うことを聞く者がだいぶ有・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 馭者のチョッ/\という舌打ちがして、橇は速力をゆるめた。「誰だ?」「心配すんねえ!……えらそうに!」 声で、アメリカ兵であることが知れた。と同時に、別の弾力性のある若い女の声が闇の中にひゞいた。声の調子が、何か当然だという・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・一尾がそれとなく報酬の花鳥使まいらせ候の韻を蹈んできっときっとの呼出状今方貸小袖を温習かけた奥の小座敷へ俊雄を引き入れまだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日と詞約えて裏口から逃し・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふた・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ 彼はぐっと一息に飲みほし、それからちょっちょっと舌打ちをして、「まむし焼酎に似ている」と言った。 私はさらにまた注いでやりながら、「でも、あんまりぐいぐいやると、あとで一時に酔いが出て来て、苦しくなるよ」「へえ? おか・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵るなら、ちゃんと罵るがいい」「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色のハンケチをとり出し、頸の・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯くと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ちょっちょっと舌打ちをしながら食べるんだよ、と全くなんの表情も無く、お・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・要太郎はとんでもない方へ進んでいる。声を掛けようかと思ったが鳥を驚かしてはならぬと思うて控えていると果然鴫は立った。要太郎は舌打ちをしたと云う風であったが此方を見て高く笑うた。そして二本並んだ木蔭へ足を投げ出して坐って吾等を招いた。「ドーダ・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
出典:青空文庫