・・・その頃は欧洲行の乗客が多いために三カ月位前から船室を取る申込をして置かねばならなかったのだ。わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ ギラギラする光の中から、地下室の監房のような船室へ、いきなり飛び込んだ彼は、習慣に信頼して、ズカズカと皿箱をとりに奥へ踏み込んだ。 皿箱は、床格子の上に造られた棚の中にあった。 彼は、ロープに蹴つまずいた。「畜生! 出鱈目・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・三尺ばかりの高さほかない船室に寐て居た身はここへ来て非常の愉快を感じた。殊に既往一ヶ月余り、地べたの上へ黍稈を敷いて寐たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寐たりという境涯であった者が、俄に、蒲団や藁蒲団の二、三枚も重ねた寐台の上に寐た時は、まる・・・ 正岡子規 「病」
・・・の宗教家はアメリカなどでは大した信頼をつながれている人だそうだが、恐らくその小説の中で同様の事件があったのなら、何かの形で正義と人間愛の演説をされる機会を持たれただろうが、現実に自分の足の下の暑苦しい船室の中で起ったことに対しては片言もふれ・・・ 宮本百合子 「龍田丸の中毒事件」
・・・ スムールイの船室に行くと、彼は小さい皮表紙の本を渡した。「読んで見な!」 ゴーリキイはマカロニ箱の上に腰かけて声高く読む。「……左胸のあらわなるはハートの無垢なるを示し……」 すると、煙草をふかしつつ仰向に横になっているス・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫