・・・霜に、雪に、長く鎖された上に、風の荒ぶる野に開く所為であろう、花弁が皆堅い。山吹は黄なる貝を刻んだようで、つつじの薄紅は珊瑚に似ていた。 音のない水が、細く、その葉の下、草の中を流れている。それが、潺々として巌に咽んで泣く谿河よりも寂し・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・そして、夏の日が海のかなたに傾いて無数のうろこ雲が美しく花弁のように空に散りかかったときに、身を投げて死んだものもありました。 こうして、死んだ人々に対しては、だれも悲しいというような感じを抱きませんでした。このままこの国に朽ちてしまっ・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・きよは、やさしいお嬢さんのことを、国の妹に書いて送る中へと思って、散った、真っ赤なけしの花弁を拾ったのであります。 風に葉が光って、ひらひらとちょうちょうが飛んでいました。 小川未明 「気にいらない鉛筆」
・・・入り陽が、赤い花弁に燃えついたように、旗の色がかがやいて、ちょうど風がなかったので、旗は、だらりと垂れていました。船の中で、合図をしているように思われました。彼は、がけをおりようかと思いましたが、ほんとうに、自分を迎えにきてくれたのなら、何・・・ 小川未明 「希望」
・・・ 花は、この厚顔ましいくもが、せめて花弁だけ、糸でしばりつけないのを、せめてものしあわせと考えていました。そして、くもは、横着者であって、かや、はえがこないときは、根もとの方に隠れて眠っていました。 ある日、きれいなちょうが飛んでき・・・ 小川未明 「くもと草」
・・・ 花は、海の方から吹いてくる風に、そのうすい花弁を震わせながら、自分の身の不幸を悲しんでいました。 ある日のことであります。一ぴきの羽の美しいこちょうが、ひらひらと、どうしたことかその辺へ飛んできました。そして、そこに、赤いとこなつ・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・ 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃ・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・紅い薔薇の花弁が彼女の口唇を思わせるように出来ている。大塚さんはそれを自分の顔に押宛て押宛てして見た。 温暖い晩だ。この陽気では庭の花ざかりも近い。復た夜が明けてからの日光も思いやられる。光と熱――それはすべての生物の願いだ。とは言いな・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・はかなげに咲き残った、何とかいう花に裾が触れて、花弁の白いのがはらはらと散る。庭は一面に裏枯れた芝生である。離れの中二階の横に松が一叢生えている。女松の大きいのが二本ある。その中に小さな水の溜りがある。すべてこの宅地を開く時に自然のままを残・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・胡麻粒ほどの桜の花弁を一ぱいに散らした縮緬の着物を着ていた。私は祖母に抱かれ、香料のさわやかな匂いに酔いながら、上空の烏の喧嘩を眺めていた。祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。ころげ落ちながら私は祖母の顔を見つめていた。祖母・・・ 太宰治 「玩具」
出典:青空文庫