・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・…… 矢藤老人――ああ、年を取った伊作翁は、小浜屋が流転の前後――もともと世功を積んだ苦労人で、万事じょさいのない処で、将棊は素人の二段の腕を持ち、碁は実際初段うてた。それ等がたよりで、隠居仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ですが、苦労人の女中にも、わけ知の姉たちにも、気ぶりにも悟られた事はありません。身ぶり素ぶりに出さないのが、ほんとの我が身体で、口へ出して言えないのが、真実の心ですわ。ただ恥かしいのが恋ですよ。――ですがもうその時分から、ヒステリーではない・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・「わたしはそんな苦労人じゃアございませんよ」と、僕の妻は顔を赤くして笑った。「そりゃア、これまでにも今度のようなことがあったし、またいろんな芸者をつれ込んで来られたこともあったから、その方では随分苦労人になった、わ」「ほんとです、ね・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・初代もなかなか苦労人でかつ人徳があったが、淡島屋の身代の礎を作ったのは全く二代目喜兵衛の力であった。四 狂歌師岡鹿楼笑名 前記の報条は多分喜兵衛自作の案文であろう。余り名文ではないが、喜兵衛は商人としては文雅の嗜みがあったの・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 花嫁にあるまじい振舞いだったが、仲人はさすがに苦労人で、宇治の螢までが伏見の酒にあくがれて三十石で上ってきよった。船も三十石なら酒も三十石、さア今夜はうんと……、飲まぬ先からの酔うた声で巧く捌いてしまった。伏見は酒の名所、寺田屋は伏見・・・ 織田作之助 「螢」
・・・と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。と・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・「何故チュウて問われると困まるが、一口に言うと先生は苦労人だ。それで居て面白ろいところがあって優しいところがあるだ。先生とこう飲んでいると私でも四十年も前の情話でも為てみたくなる、先生なら黙って聴いてくれそうに思われるだ。島中先生を好ん・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・そうして時たま私に手紙を寄こして、その娘の縁談に就いて、私の意見を求めたりなどして、私もその候補者の青年と逢い、あれならいいお婿さんでしょう、賛成です、なんてひとかどの苦労人の言いそうな事を書いて送ってやった事もあった。 しかし、いまで・・・ 太宰治 「朝」
・・・ と言った。「いや、いけません。ウイスキイがまだ少し残っている。」「いや、それは残して置きなさい。あとで残っているのに気が附いた時には、また、わるくないものですよ。」 苦労人らしい口調で言った。 私は丸山君を吉祥寺駅まで・・・ 太宰治 「酒の追憶」
出典:青空文庫