・・・ 二郎が苦笑いしてこの将軍の大笑に応え奉りしさまぞおかしかりける。将軍の御齢は三十を一つも越えたもうか、二郎に比ぶれば四つばかりの兄上と見奉りぬ。神戸なる某商館の立者とはかねてひそかに聞き込みいたれど、かくまでにドル臭き方とは思わざりし・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・青年は童の言うがまにまにこの驢馬にまたがれど常に苦笑いせり。青年には童がこの兎馬を愛ずるにも増して愛で慈しむたくましき犬あればにや。 庭を貫く流れは門の前を通ずる路を横ぎりて直ちに林に入り、林を出ずれば土地にわかにくぼみて一軒の茅屋その・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・と男は苦笑いをした。「いいかね。僕の言ったことを君は守らんければ不可よ。尺八を買わないうちに食って了っては不可よ。」「はい食べません、食べません――決して、食べません。」 と、男は言葉に力を入れて、堅く堅く誓うように答えた。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ ディオニシアスもこのときばかりはくすくす苦笑いをしました。そして、相手の正直なことを褒める印に、そのまま解放してやりました。 二 しかし、ディオニシアスについて伝えられているお話の中で、一ばん人を感動させる・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・それから、ご亭主も、仕方無さそうに苦笑いして、「いや、まったく、笑い事では無いんだが、あまり呆れて、笑いたくもなります。じっさい、あれほどの腕前を、他のまともな方面に用いたら、大臣にでも、博士にでも、なんにでもなれますよ。私ども夫婦ばか・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・けれども重吉が苦笑いさえせずに控えていてくれたので、こっちもまじめに進行することができた。「元来男らしくないぜ。人をごまかして自分の得ばかり考えるなんて。まるで詐欺だ」「だって叔父さん、僕は病気なんかに、まだかかりゃしませんよ」と重・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。これは理の当然だ。それから公園へでも行くと角兵衛獅子に網を被せたような女がぞろぞろ歩行いている。その中には男もいる。職人もいる。感心に大概は日本の奏任官以上の服装をしている。この国では衣服では人・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣の懐裡へ押し込んだ。「ちッとお臥るがよござんすよ」「もう夜が……明るくなッてるんだね」「なにあなた、まだ六時ですよ。八時ごろまでお臥ッて、一口召し上ッて、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳ないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・母は苦笑いした。今思えば、その声も歌詞もキャバレーで唄われたようなものであったろう。更に思えば、当時父の持って来たレコードもどちらかと云えばごく通俗のものであったと考えられる。オペラのものやシムフォニーのまとまったものはなかったように思われ・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
出典:青空文庫