・・・彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかりひっかけていたのである。「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時はまだ好いんだ。いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃべっているじゃないか? 女も先生先・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ 賢造は苦笑を洩らしながら、始めて腰の煙草入れを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。 病室からは相不変、お律の唸り声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士は・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ と思わず呟いて苦笑した。「待てよ」 獲物を、と立って橋の詰へ寄って行く、とふわふわと着いて来て、板と蘆の根の行き逢った隅へ、足近く、ついと来たが、蟹の穴か、蘆の根か、ぶくぶく白泡が立ったのを、ひょい、と気なしに被ったらしい。・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って苦笑をした、船頭は年紀六十ばかり、痩せて目鼻に廉はあるが、一癖も、二癖も、額、眦、口許の皺に隠れてしおらしい、胡麻塩の兀頭、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居の、七兵衛という親仁である・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・穏かな岡村も顔に冷かな苦笑を湛えて、相変らず元気で結構さ。僕の様に田舎に居っちゃ、君の所謂時代の中心から離れて居るからな、何も解らんよ。とにかくここでは余り失敬だ。君こっちにしてくれ給え。こういって岡村は片手に洋燈を持って先きに立った。あア・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・僕は苦笑しているほかなかった。「こんな児があっても」と、かの女は抱き児が泣き出したのをわざとほうり出すように僕の前に置き、「可愛くなけりゃア、捨てるなり、どうなりおしなさい!」「………」これまで自分の子を抱いたことのない僕だが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・椿岳さんの画には最う懲り懲りしたと、楢屋はその後椿岳の噂が出る度に頭を掻き掻き苦笑した。浅草絵と浅草人形 椿岳のいわゆる浅草絵というは淡島堂のお堂守をしていた頃の徒然のすさびで、大津絵風の泥画である。多分又平の風流に倣ったのであろう・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・とがあるが、「一カ月ぶりで他家を訪ねた」と言われた。その頃は多分痔を療治していられたかと想う。生れて初めて外科の手術を受けたとのことで、「実に聊かな手術なのに……」と苦笑して、その手術の時のことを話された。 軽い手術だから医者は局部注射・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・そして、地下にある人の思想と、趣味とを考慮してか、それとも無意識的にか、其処に建設された墓石と、葬られた人とを想い併せて、不自然に考えることもあれば、また、苦笑を禁じ得ざることもあるのである。 ラスキンは言ったのである。死者は、よろしく・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・ 曖昧に苦笑してると、男はまるで羽搏くような恰好に、しきりに両手をうしろへ泳がせながら、「失礼でっけど、あんた昨夜おそうにお着きにならはった方と違いまっか」 と、訊いた。「はあ、そうです」 何故か、私は赧くなった。「・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫