・・・と言い残して川岸の、山吹の茂みの中に姿を消してそれっきり、翌日も、翌々日も河原へ出ては来なかった。佐野君だけは、相かわらず悠々と、あの柳の木の下で、釣糸を垂れ、四季の風物を眺め楽しんでいる。あの令嬢と、また逢いたいとも思っていない様子である・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・あるいは突然銃声が聞こえて窓ガラスに穴をあける、そこでカメラが回転して行って茂みに隠れた悪漢に到着するといったような、いわゆる非同時的な音響配偶によっていろいろの効果が収め得らるるのである。「西部戦線」の最後の幕で、塹壕のそばの焦土の上に羽・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・驚いて川に飛び込む鰐は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・薄暗い湿っぽい朽葉の匂のする茂みの奥に大きな虎杖を見付けて折取るときの喜びは都会の児等の夢にも知らない、田園の自然児にのみ許された幸福であろう。これは決して単なる食慾の問題ではない。純な子供の心はこの時に完全に大自然の懐に抱かれてその乳房を・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・ 森の茂みをくぐり飛ぶ小鳥が決して木の葉一枚にも触れない。あの敏捷さがわれわれの驚嘆の的になるが、彼はまさに前記の侏儒国の住民であるのかもしれない。 象が何百年生きても彼らの「秒」が長いのであったら、必ずしも長寿とは言われないかもし・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・はげしい恐慌に襲われた彼らは自分の身長の何倍、あるいは何十倍の高さを飛び上がってすぐ前面の茂みに隠れる。そうして再び鋏がそこに迫って来るまではそこで落ち付いているらしい。彼らの恐慌は単に反射的の動作に過ぎないか、あるいは非常に短い記憶しか持・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・一緒に公園の茂みの中にわなをかけに行っても彼のかけた係蹄にはきっとつぐみや鶸鳥が引掛かるが、自分のにはちっともかからなかった。鰻釣りや小海老釣りでも同様であった。亀さんは鳥や魚の世界の秘密をすっかり心得ているように見えた。学校ではわりに成績・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・夏を彩どる薔薇の茂みに二人座をしめて瑠璃に似た青空の、鼠色に変るまで語り暮した事があった。騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇の時期と名づける、これは女の方で・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・アークライトが緑の茂みを打ち抜いて、複雑な模様を地上に織っていた。ビールの汗で、私は湿ったオブラートに包まれたようにベトベトしていた。 私はとりとめもないことを旋風器のように考え飛ばしていた。 ――俺は飢えてるんじゃないか。そして興・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫