・・・ しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・――何でも古い黄八丈の一つ身にくるんだまま、緒の切れた女の草履を枕に、捨ててあったと云う事です。「当時信行寺の住職は、田村日錚と云う老人でしたが、ちょうど朝の御勤めをしていると、これも好い年をした門番が、捨児のあった事を知らせに来たそう・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・彼はそれで少し救われたような心持ちになって、草履の爪さきを、上皮だけ播水でうんだ堅い道に突っかけ突っかけ先を急いだ。 子供たちの群れからはすかいにあたる向こう側の、格子戸立ての平家の軒さきに、牛乳の配達車が一台置いてあった。水色のペンキ・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・僕は夢中になって、そこにあった草履をひっかけて飛び出しました。そして格子戸を開けて、ひしゃげた帽子を拾おうとしたら、不思議にも格子戸がひとりでに音もなく開いて、帽子がひょいと往来の方へ転がり出ました。格子戸のむこうには雨戸が締まっているはず・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。「姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸に、褄を引摺っていたんだから駄目だ、意気地は・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。 翼に藍鼠の縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷が黒かった。 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ それで民子は、例の襷に前掛姿で麻裏草履という支度。二人が一斗笊一個宛を持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩く・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・し、半分黒焦げになったりポンプの水を被ったりした商品、歪げたり破れたりしたボール箱の一と山、半破れの椅子や腰掛、ブリキの湯沸し、セメント樽、煉瓦石、材木の端片、ビールの空壜、蜜柑の皮、紙屑、縄切れ、泥草履と、塵溜を顛覆返したように散乱ってる・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・女の乞食は門番が居眠りをしていましたので、だれにもとがめられることがなく、草履の音もたてずに、若草の上を踏んで、しだいしだいにお城の奥深く入ってきたのであります。 お姫さまは、おりから、怪しげなようすをした女がこちらに近づいてくるのをご・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・そして、博奕打ちに特有の商人コートに草履ばきという服装の男を見ると、いきなりドンと突き当り、相手が彼の痩せた体をなめて掛ってくると、鼻血が出るまで撲り合った。 ある日、そんな喧嘩のとき胸を突かれて、げッと血を吐いた。新聞社にいたころから・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫