・・・次の日の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・尚前方を注視しつつ草履を穿くだけの余裕が其時彼の心に存在した。彼は蓆を押して外へ出た。棍棒が彼の足に触れた。彼はすぐにそれを手にした。そうしていきなり盗人に迫った。其時は既に盗ではなかった其不幸な青年は急遽其蜀黍の垣根を破って出た。体は隣の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・その時池辺君が帽を被らずに、草履のまま質素な服装をして柩の後に続いた姿を今見るように覚えている。余は生きた池辺君の最後の記念としてその姿を永久に深く頭の奥にしまっておかなければならなくなったかと思うと、その時言葉を交わさなかったのが、はなは・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・ 廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・蕪村集中にその例を求むれば鶯の鳴くや小き口あけてあぢきなや椿落ち埋む庭たつみ痩臑の毛に微風あり衣がへ月に対す君に投網の水煙夏川をこす嬉しさよ手に草履鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門夕風や水青鷺の脛を打つ点滴・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ぼかげで置いで来おみちは急いで草履をつっかけて出たけれども間もなく戻って来た。(脚(若いがら律儀嘉吉はまたゆっくりくつろいでうすぐろいてんを砕いて醤油につけて食った。 おみちは娘のような顔いろでまだぼんやりしたように座っていた。それは嘉・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音をさせながら歩いた。「ね、おっかちゃん、あんな家却って駄目なんだよ。女中の奴がね、いきなりいりませんて断っちまやがるよ」 一太が賢そうな声を潜めて母に教えた。そこでは、桜の葉が散っている門内・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。 道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・私はこの間に、まだ見たこともない大きな石臼の廻るあいだから、豆が黄色な粉になって噴きこぼれて来るのや、透明な虫が、真白な瓢形の繭をいっぱい藁の枝に産み作ることや、夜になると牛に穿かす草履をせっせと人人が編むことなどを知った。また、藪の中の黄・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・校風の暗黒面にみなぎる悪思潮は門鑑制度、上草履制度の無視ではない、尊き心霊に対する肉的侮辱である。吾人は口に豪壮を語る輩が女々しく肉に降服せるを見て憐れまざるを得ない。吾人は社会に罪悪の絶えぬ以上校友の思想に欠点あるを怪しまぬ。ただ願わくば・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫