・・・ 進むに従って両岸の景色が何となく荒涼に峻険になって来るのが感ぜられた。崖の崩れた生ま生ましい痕が現わになり渓流の中にも危岩が聳え立って奔流を苛立たせている処もある。 大きな崖崩れで道路のこわれたあとがもう荒まし修繕が出来ていた。そ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ち日本を嫌う気色もなく、自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめねばやまぬ勢を得つつ進むのを、日ごと眼前に目撃しながら、それ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・唯この上は女子社会の奮発勉強と文明学士の応援とを以て反正の道に進む可きのみ。事は新発明新工夫に非ず。成功の時機正に熟するものなり。一 言葉を慎みて多すべからず。仮にも人を誹り偽を言べからず。人の謗を聞ことあらば心に納て人に伝へ語・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・車は一足二足とまた進む。いっそ山下から返れといおうと思うたがそれもと思うて躊躇して居ると車は山を上ってしもうた。もう提灯も何も見えぬ。もう仕方がないとあきらめると、つめたい風が森の中から出て電気燈の光にまじって来るので、首巻を鼻までかけて見・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・ ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎の・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・その人々が一生をつくして仕上げたいと思う生存の目標に向って進む自己を悦びにより、苦しみにより一層豊饒にし、賢くしてくれる恋愛、それから発足した範囲の広い愛の種々相に対して、私共は礼讚せずにはいられませんが、無限な愛の一分野と思われる恋愛ばか・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核を蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 氏が『麦』によってなしたところは、この方向に進むものとしては、あのままでいいのかもしれない。しかし自己の情緒を中心とする場合には、勢いその情緒の範囲の内に画が局限せられる恐れもある。従って一方には自己の情緒を深め、強め、あるいは分化さ・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫