・・・上塗りのしてない粗壁は割れたり落ちたりして、外の明りが自由に通っている。「狐か狸でも棲ってそうな家だねえ」耕吉はつくづくそう思って、思わず弱音を吐いた。「何しろ家賃が一カ月七十銭という家だからな、こんなもんだろう」と老父は言ったが、・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活をしているように思われた。喬の部屋はそんな通りの、卓子で言うなら主人役の位置に窓を開いていた。 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・まだ荒壁が塗りかけになって建て具も張ってない家に無理無体に家財を持ち込んで、座敷のまん中に築いた夜具や箪笥の胸壁の中で飯を食っている若夫婦が目についたりした。 新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖を突いて行儀悪く・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・眼下は、どこか人家の背戸だ。荒壁のうしろに、小さい一枚畑があって蔬菜が作ってある。手拭をかぶった女子が、雨にかまわず畝のところにかがんで何かしている。それがいつまでも遙か下の方に小さく見えた。 雨中、福済寺を見る。やはり黄檗宗で、明・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 南向きの広場中には、日がカアッとさして、桔槹の影は彼方の納屋の荒壁を斜に区切って消えている。 二十日ほど前に誕生した雛共が、一かたまりの茶黄色のフワフワになって、母親の足元にこびりつきながら、透き通るような声で、 チョチョチョ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 小作人でも少し世襲的の財産めいたものが有るものなんかは、馬なども、たまには持って居るけれ共、その馬小屋と云うのは、四方は荒壁で馬の出入りに少しばかりをあけて菰を下げ、立つ事と眠る事の出来るだけのひろさほか与えられて居ないものである。・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・目につくのは、荒壁に干し連ねた瘠大根ばかり。羽根をつく女の児一人もなし。凧をあげる男児もなし。日向の枯草堤に、着物だけ着換えた娘三四人詰らなさそうに、通る私達を見物して居た。消防詰所傍の広場で、数人の男児、自働車の古タイアを輪廻しのようにこ・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
出典:青空文庫