・・・いずれは身のつまりで、遁げて心中の覚悟だった、が、華厳の滝へ飛込んだり、並木の杉でぶら下ろうなどというのではない。女形、二枚目に似たりといえども、彰義隊の落武者を父にして旗本の血の流れ淙々たる巡査である。御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・当時の仏教は倶舎、律、真言、法相、三論、華厳、浄土、禅等と、八宗、九宗に分裂して各々自宗を最勝でありと自賛して、互いに相排擠していた。新しく、とらわれずに真理を求めようとする年少の求道者日蓮にとってはそのいずれをとって宗とすべきか途方に暮れ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・巌といえば日光の華厳の滝のかかれる巌、白石川の上なる材木巌、帚川のほとりの天狗巌など、いずれ趣致なきはなけれど、ここのはそれらとは状異りて、巌という巌にはあるが習いなる劈痕皺裂の殆どなくして、光るというにはあらざれど底におのずから潤を含みた・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「華厳」は、よかった。今月、「文学月報」に発表された短篇小説を拝見して、もう、どうしてもじっとして居られず、二十年間の、謂わば、まあ、秘めた思いを、骨折って、どもりどもり書き綴りました。失礼ではあっても、どうか、怒らないで下さい。私も既に四・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのよう・・・ 太宰治 「富士に就いて」
・・・人間だけを信じている。華厳の滝が涸れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえど・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・そんな事ばっかり考えて居れば気でもちがって華厳行になるよ。ほんとうに妙な子だ」と云うのであった。 私は椽がわからつきおとされたような気持でだまってしわの多くなった私の母のかおを見つめて居た。母は又、「そんなこわいかおをして。・・・ 宮本百合子 「妙な子」
・・・特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華というか、華厳というか、実に大したものだと思った。しかしその年の紅葉がそういうふうに出来がよいということの見透しは、その間ぎわまではつかないのである。手紙で打ち合わせ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へと三を数え七十を数え九百を数え千万に至るまで伝わって行く。この波紋が伝説となり神話と・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫