・・・裏窓からその蚊帳を通して来る萌黄色の光に包まれたこの小さな部屋の光景が、何故か今でも目について忘れられない。 どんな用向きでどんな話をしたか、それがどういう風に運んだのであったか、その方の記憶は完全に消えてしまっている。とにかく簡単な用・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・寝相の悪い隣の男に踏みつけられて目をさますと、時計は四時過ぎたばかりだのに、夜はしらしらと半分上げた寝室のガラス窓に明けかかって、さめ切らぬ目にはつり並べた蚊帳の新しいのや古い萌黄色が夢のようである。窓の下框には扁柏の高いこずえが見・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・そのボロボロの長屋に柿色や萌黄の蛇の目の傘が出入りしている。 またある日。 蒲団を積んだ手荷車が盲長屋の裏を向うへ、ゆるやかな坂を向うへ上って行く。貸夜具屋が病院からの電話で持込むところと想定してみる。突当りを右へ廻れば病院の門であ・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる。歌の言葉は聞き取れぬが、単調な悲しげな節で消え入るように長く・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座をつとめ、毎月師匠の持席の変るごとに、引幕を萌黄の大風呂敷に包んで背負って歩いた。明治三十一、二年の頃のことなので、まだ電車はなかった。 当時のわたしを知っているものは井上唖・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 糸織の羽織に雪駄ばきの商人が臘虎の襟巻した赧ら顔の連れなる爺を顧みた。萌黄の小包を首にかけた小僧が逸早く飛出して、「やア、電車の行列だ。先の見えねえほど続いてらア。」と叫ぶ。 車掌が革包を小脇に押えながら、帽子を阿弥陀に汗をふきふ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・となりに、百代が萌黄立枠の和服で深く椅子の中に靠れ込み、忠一と低い声であきず何か話していた。忠一は、百代の背中に手をまわすようにして、同じ椅子の肱に横がけしているのだ。その真正面に、もう一冊の活動写真雑誌をひろげて篤介が制服でいた。午後二時・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・春先、まだ紫陽花の花が開かず、鮮やかな萌黄の丸い芽生であった頃、青桐も浅い肉桂色のにこげに包まれた幼葉を瑞々しい枝の先から、ちょぽり、ちょぽりと見せていた。 浅春という感じに満ちて庭を彼方此方、歩き廻りながら日を浴び、若芽を眺めるのは、・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・日本のなごやかな錦の配色など――金地に朱、黄、萌黄、茶、緑などあしらった――は、斯那自然の色調から生れたものと思う。蜜柑、橙々の枝もたわわに実ったのを見たら、岡本かの子の歌を連想した。南画的樹木多し。私達の部屋の障子をあけると大椎樹の下に、・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
出典:青空文庫