・・・女は驚ろいた様もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子に、はたと他の一疋と高麗縁の上で出逢う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里の菓子皿を端まで同行・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ だが、見たため、知ったために命を落とす人が多くある。その一つの話を書いてみましょう。 その学校は、昔は藩の学校だった。明治の維新後県立の中学に変わった。その時分には県下に二つしか中学がなかったので、その中学もすばらしく大きい校・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族と同席して平伏せざるは昇進なり。下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止む・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・「おれそれであ、あの木の上がら落とすがらな。」と一郎は言いながら崖の中ごろから出ているさいかちの木へするするのぼって行きました。そして、「さあ落とすぞ。一二三。」と言いながらその白い石をどぶん、と淵へ落としました。 みんなはわれ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・其処に 日が照り 香気がちり朽ちても 大地に種を落す命の ひきつぎて となり得るのだ。私は、謙譲な 一人の侍女それ等の果物を一つ一つみのるがまま、色づくがまま捧げて 神に供える。朝 園を見まわり身体を・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・地に影を落すために立っているのではない。立っていれば影が差すのが当り前である。そしてその当り前の事が嬉しいのである。 フランツは父が麓の町から始めて小さい沓を買って来て穿かせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼ぶ。呼べばいつでも木精の・・・ 森鴎外 「木精」
・・・そんならあなたはわたくしのような性の女が手紙を落すつもりでなくて落すものだとお思いなさるの。 男。なんですと。 女。夫を持っていて色をしようと云う女に、手紙の始末ぐらいが出来ないものでございましょうか。あなたのお考えなさるように、わ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・それは丁度、彼の田虫が彼を幸運の絶頂から引き摺り落すべき醜悪な平民の体臭を、彼の腹から嗅ぎつけたかのようであった。四 千八百四年、パリーの春は深まっていった。そうして、ロシアの大平原からは氷が溶けた。 或る日、ナポレオン・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・どこからか差す明りが、丁度波の上を鴎が走るように、床の上に影を落す。 突然さっき自分の這入って来た戸がぎいと鳴ったので、フィンクは溜息を衝いた。外の廊下の鈍い、薄赤い明りで見れば、影のように二三人の人の姿が見える。新しく着いた旅人がこの・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・私は過激な言葉をもって反対者を責め家族の苦しみを冒して、とうとう今日の正午に瀕死の病人を包みくるんだ幾重かの嘘を切って落とす事に成功した。肉体の苦しみよりもむしろ虚偽と不誠実との刺激に苦しみもがいていた病人が、その瞬間に宿命を覚悟し、心の平・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫