・・・眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごと・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠めて砕くるばかりに石の上に落つる。 槍の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・今度は先方も少しは落ついている。「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。「御・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・馬を撰ばずして、みだりに乗れば落つることあり。食物を撰ばずしてみだりに食えば毒にあたることあり。判断の明、まことに大切なることなれども、ただこれを大切なりというのみにては、未だもって議論のつきたるものに非ず。ゆえに今この問題に付ては、人にし・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽い、時として潔清義烈の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・「怒りたる」が主眼なり。さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。島崎土夫主の軍人の中にあるに妹が手にかはる甲の袖まくら寝られぬ耳に聞くや夜嵐 上三句重く下二句軽く、瓢・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる涙の玉はらいもあえず一もとの草花を手向にもがなと見まわせども苔蒸したる石燈籠の外は何もなし。思いたえてふり向く途端、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとそ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ いるとすきになるところよ、何だか落つくの」 庭に小松の繁茂した小高い砂丘をとり入れた、いかにも別荘らしい、家具の少ない棲居も陽子には快適そうに思われた。いくら拭いても、砂が入って来て艶の出ないという白っぽい、かさっとした縁側の日向で透・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 飛石の様に、ぽつりぽつりと散って居る今日の気持は自分でも変に思う位、落つけない。 女中に、 私の処へ手紙が来てないかい。ときく。書生にも同じ事を聞く。 十二時すぎに、待ち兼ねて居たものが来た。 葉書の走り書・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・自分は彼のヨーロッパ紀行に楽しい望みをかける点において、人後に落つるものでない。しかしその「望み」のうちには右のごとき期待と祈りが強く混じているのである。付記。この文章は十七年前に書かれたものであるが、その後の年月はこの文章の誤・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫