・・・ 第一、莨盆の蒔絵などが、黒地に金の唐草を這わせていると、その細い蔓や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙の箸とか、青銅の火箸とか云う先の尖った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁の交叉した角や、天井の四隅まで・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。 階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・変れば変るもので、まだ、七八ツ九ツばかり、母が存生の頃の雛祭には、緋の毛氈を掛けた桃桜の壇の前に、小さな蒔絵の膳に並んで、この猪口ほどな塗椀で、一緒に蜆の汁を替えた時は、この娘が、練物のような顔のほかは、着くるんだ花の友染で、その時分から円・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵の重に片袖を掛けて、ほっと憩らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘そう。その人のいま居る背後に、一本の松は、我がなき母の塚であった・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・箪笥、長持、挟箱、金高蒔絵、銀金具。小指ぐらいな抽斗を開けると、中が紅いのも美しい。一双の屏風の絵は、むら消えの雪の小松に丹頂の鶴、雛鶴。一つは曲水の群青に桃の盃、絵雪洞、桃のような灯を点す。……ちょっと風情に舞扇。 白酒入れたは、ぎや・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・――漆にちらめく雪の蒔絵の指さきの沈むまで、黒く房りした髪を、耳許清く引詰めて櫛巻に結っていた。年紀は二十五六である。すぐに、手拭を帯に挟んで――岸からすぐに俯向くには、手を差伸しても、流は低い。石段が出来ている。苔も草も露を引いて皆青い。・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・いわゆる一ト筋を通し、一ト流れを守って、画なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯の何時頃とか、書なら書で儒者の誰とか、蒔絵なら蒔絵で極古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・これは少し私より年長で、家は蒔絵職でした。仲の好い友達でしたから折々遊びにもゆきましたが、これが読本を家で読んで来ては、学校の休息時間に細川や私なぞに九紋龍史進、豹子頭林冲などという談しを仕て聞かせたのでした。 前に申したように御維新の・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・のお霜の手を俊雄は執らえこれではなお済むまいと恋は追い追い下へ落ちてついにふたりが水と魚との交を隔て脈ある間はどちらからも血を吐かせて雪江が見て下されと紐鎖へ打たせた山村の定紋負けてはいぬとお霜が櫛へ蒔絵した日をもう千秋楽と俊雄は幕を切り元・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・山遊びの弁当には酒を入れる吸筒もついていて、吼の蒔絵がしてあった。「今でもこんなものを持ってゆくのかい」道太はその弁当をもの珍らしそうに眺めていた。「あまりいいものでもないけれど」「この弁当は」道太は子供のように今一つの弁当を捻・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫