・・・雨がやむと、蒸し暑い六月の太陽は、はげしく、僕等を頭から煎りつけた。 嫂は働かなかった。親爺も、おふくろも、虹吉も満足だった。親爺が満足したのは、田地持ちの分限者の「伊三郎」と姻戚関係になったからである。おふくろが満足したのは、トシエが・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ その日は、人の心を腐らせるような、ジメジメと蒸暑い八月上旬のことで、やがて相川も飜訳の仕事を終って、そこへペンを投出した頃は、もう沮喪して了った。いつでも夕方近くなると、無駄に一日を過したような後悔の念が湧き上って来る。それがこの節相・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、・・・ 太宰治 「走れメロス」
あるきわめて蒸し暑い日の夕方であった。神田を散歩した後に須田町で電車を待ち合わせながら、見るともなくあの広瀬中佐の銅像を見上げていた時に、不意に、どこからともなく私の頭の中へ「宣伝」という文字が浮き上がって来た。 それ・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・ 風のない蒸し暑いある日の夕方私はいちばん末の女の子をつれて鋏を買いに出かけた。燈火の乏しい樹木の多い狭い町ばかりのこのへんの宵闇は暗かった。めったに父と二人で出る事のない子供は何かしら改まった心持ちにでもなっているのか、不思議に黙って・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・また瀬戸内海の沿岸では一体に雨が少なかったり、また夏になると夕方風がすっかり凪いでしまって大変に蒸暑いいわゆる夕凪が名物になっております。これらはこの地方が北と南に山と陸地を控えているために起る事で、気象学者の研究問題になります。しかし、こ・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・ 三 シンガポール四月八日 朝から蒸し暑い。甲板でハース氏に会うと、いきなり、芝の増上寺が焼けたが知っているか、きのうのホンコン新聞に出ていたという。かなりにもう遠くなった日本から思いがけなくだれかが跡を追っ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・肺結核でそこに転地しているある人を見舞いに行って一晩泊まった時がちょうど旧暦の盆の幾日かであった。蒸し暑い、蚊の多い、そしてどことなく魚臭い夕靄の上を眠いような月が照らしていた。 貴船神社の森影の広場にほんの五六人の影が踊っていた。どう・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・ 肌でもぬぎたいほど蒸し暑い日だったので、冬の衣裳をつけた役者はみな茹りきっていた。「勧進帳なんかむりだもんね。舞台も狭いし、ここじゃやはり腕達者な二三流どこの役者がいいだろう」「そうかもしれません」「鴈治郎はよくかけ声か何・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事だから、些か恰好の異った人間たちが、沢山、気取ってブラついていた。私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名なんだが―・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫