・・・ 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・何日やら蒸暑い日の夕方に、雨が降って来た時に貴方と二人でこの窓の処に立って濡れた樹々の梢から来る薫を聞いた事があります。ああ、何もかも皆な過ぎ去ってしまいました。そして皆な儚い恋の小さい奥城の中に埋まってしまいました。しかしその埋まったもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 五月の末、或る蒸し暑い日でした。波多野さんが尋ねて来ましたが、その折なるほど女は斯うあってもいいと思わせるような瀟洒な姿であるにも拘らず、何時もよりはだいぶ痩せが見えていたので、そのことに就いて聞くと、只仕事が忙しいのと夏痩の結果であ・・・ 宮本百合子 「有島さんの死について」
・・・丁度そのころの日本の若い精神がその青春の嵐とともに直面していた歴史的な波瀾だの、そのことと弟の内生活の相剋だのの点には、余りふれられていなかったが、愛する息子を喪ったもう若くない父親が、八月の蒸し暑い雨の夜、その雨のしずくに汗と涙を交えて頬・・・ 宮本百合子 「父の手紙」
・・・風も吹かず、日光も照らず、どんより薄ぐもりの空から、蒸暑い熱気がじわじわ迫って来る処に凝っと坐り、朝から晩まで同じ気持に捕えられていると、自分と云うものの肉体的の存在が疑わしいようになる――活きて、動いて、笑い、憤りしていた一人の女性として・・・ 宮本百合子 「文字のある紙片」
・・・翌日は蒸し暑い残暑だ。樹がロンドンじゅうで黄葉した。 空は灰色である。雨上りのテームズ河に潮がさし、汽船が黒、赤、白。低い黒煙とともに流れる。架橋工事の板囲から空へ突出た起重機の鉄の腕が遠く聳えるウェストミンスタア寺院の塔の前で曲ってい・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ 花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えの詞に多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした。 蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、却て内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁見物に出た人が押し合っている。提灯に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。 川も見えず、船も見えない。玉や鍵やと叫ぶ時、群集が項を反らして、群集の上の花火を見る。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・しまいには紫川の東の川口で、旭町という遊廓の裏手になっている、お台場の址が涼むには一番好いと極めて、材木の積んであるのに腰を掛けて、夕凪の蒸暑い盛を過すことにした。そんな時には、今度東京に行ったら、三本足の床几を買って来て、ここへ持って来よ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、凌ぎ好かった。船宿は今は取り払われた河岸で、丁度亀清の向側になっていた。多分増田屋であったかと思う。 こう云う日に目貫の位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫