・・・ 戦争が長びいて、瓦斯もコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消し、掃除は先の切れた箒で、新顔の婆さんがするようになった。 ○・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・彼は鎌をぶつりと番小屋の屋根へ打ち込んだ。薄い屋根を透して鎌の刃先は牙の如く光った。彼は蚊帳へもぐってごろりと横になって絶望的に唸った。文造は止めず鍬を振って居る。其暑い頂点を過ぎて日が稍斜になりかけた頃、俗に三把稲と称する西北の空から怪獣・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・先生の髪も髯も英語で云うとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻のような色をしている上に、普通の西洋人の通り非常に細くって柔かいから、少しの白髪が生えてもまるで目立たないのだろう。それにしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人と・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・町全体が一つの薄い玻璃で構成されてる、危険な毀れやすい建物みたいであった、ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、硝子が粉々に砕けてしまう。それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、そ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 色の青白い、瘠せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深谷であった。そのうえ、なんらの事件のない時でさえ彼は、考え込んでばかりいて、影の薄い印象を人に与えていた。だが、彼はベッドに入ると直ぐに眠った。小さな・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包みを取り出した。中には平田の写真が入ッていた。重ね合わせてあッたのは吉里の写真である。 じッと見つめているうちに、平田の写真の上には・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・柑類は皮の色も肉の色も殆ど同一であるが、柿は肉の色がすこし薄い。葡萄の如きは肉の紫色は皮の紫色よりも遥に薄い。あるいは肉の緑なのもある。林檎に至っては美しい皮一枚の下は真白の肉の色である。しかし白い肉にも少しは区別があってやや黄を帯びている・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・その剥げた薄い膳には干した川魚を煮た椀と幾片かの酸えた塩漬けの胡瓜を載せていた。二人はかわるがわる黙って茶椀を替えた。膳が下げられて疲れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云った。(うん。あの女の人は孫娘らしい。亭主はきっと礦山ひる・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・民家はシベリアとは違い薄い板屋根だ。どの家も、まわりに牧柵をゆって、牛、馬、豚、山羊などを飼っている。家も低い、牧柵もひくい。そして雪がある。 川岸を埋めた雪に、兎か何か獣の小さい足跡がズーとついている。川水は凍りかけである。 風景・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・これらの女はみな男よりも小股で早足に歩む、その凋れたまっすぐな体躯を薄い小さなショールで飾ってその平たい胸の上でこれをピンで留めている。みんなその頭を固く白い布で巻いて髪を引き緊めて、その上に帽子を置いている。 がたがた馬車が、跳ね返る・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫