・・・と達筆だが、律義そうなその楷書の字が薄給で七人の家族を養っているというこの老訓導の日々の営みを、ふと覗かせているようだった。口髭の先に水洟が光って、埃も溜っているのは、寒空の十町を歩いて来たせい許りではなかろう。「先日聴いた話ですが」と・・・ 織田作之助 「世相」
・・・夫も薄給で子どもをおんぶして、貸家を捜しまわった時代のことが書いてある。その人の歌に、事にふれてめをと心ぞたのもしきあだなる思ひはみなほろぶものというのがある。この「めおと心」というのが夫婦愛で、これは長い年月を経済生活、社・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・上京して、早速、銀座のベエカリイに雇われた。薄給である。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり上品でないバアである。少しずつ離れて、たちまち加速度を以て、離れてしまった。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡な女給で・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・そのために、自分の薄給では結婚もできずにいる不幸な青年たち、今日の多難な社会で特別な経済的根拠も持たない若い男と女とが、ともに助け合って生きてゆく結合の形として、家庭というものをいまだに長火鉢中心の古い型にあてはめて不自由に、消極的に考えて・・・ 宮本百合子 「現実の道」
・・・その科学研究室の薄給で酬われる名の名声もない、しかし決して彼女らなしに科学が前進しなかった多くの婦人助手たち。キュリー夫人に尊敬と愛とが向けられるのは、これらの婦人たちの一生から彼女が全くかけはなれた「天才」であるからではない。キュリー夫人・・・ 宮本百合子 「まえがき(『真実に生きた女性たち』)」
・・・青年たちは、自分たちの薄給を身にこたえて知り、かつ自分の上役たちにさらわれてゆく若い女の姿を見せつけられすぎている。職業婦人たちは、それぞれの形で、いわゆる男の裏面をも知らざるを得ない立場におかれている。私たちの新しい常識は、職場での結合を・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
出典:青空文庫