・・・自然、不良性を帯びた生徒たちのグループに近づいたが、彼等は一人残らず煙草を吸うことで、虚栄を張っていた。私はこのこそこそした虚栄をけちくさいと思った。だから、おれだけはお前らと違うぞというつもりで、卒業するまで煙草は吸わなかった。いいかえれ・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。自分への残酷めいた快感もあった。 柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡公園裏に二階借りした。相・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 少年らしい虚栄だった。 煙草を吸うくせにマッチを持たぬのかと思われるのは、癪だと思ったのだ。すると、「下手な東京弁を使うな。君は大阪とちがうのか」 いきなり男の声が来た。 三十前後の、ヒョロヒョロと痩せて背の高い、放心・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 彼ほど虚栄心のすくない男は珍らしい。その境遇に処し、その信ずるところを行なうて、それで満足し安心し、そして勉励している。彼はけっして自分と他人とを比較しない。自分は自分だけのことをなして、運命に安んじて、そして運命を開拓しつつ進んでゆ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・「田舎へ引っ込むのはね、社会から遠くなるのじゃなくて、自分らの虚栄から遠くなるのだ。という言葉があるよ。勉強のできるのは田舎だね。お前のように田舎にいて、さびしさと戦うのもいい修業じゃないか。」「しかし、僕はそれに耐えられるほど、まだほ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ああ、そのことは、どんなに芸術家の白痴の虚栄を満足させる事件であろう。あの人は、生き残った私に、そうして罪人の私に、こんどは憐憫をもって、いたわりの手をさしのべるという形にしたいのだ。見え透いている。あんな意気地無しの卑屈な怠けものには、そ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・かれには、訪問客たちの卑屈にゆがめられているエゴイズムや、刹那主義的な奇妙な虚栄を非難したい気持ちはなかった。すべては弱さから、と解していた。この人たちは皆、自分の愛情の深さを持てあまし、そうして世間的には弱くて不器用なので、どこにも他に行・・・ 太宰治 「花燭」
・・・極端な、ヒステリックな虚栄家であります。作品を発表するという事は、恥を掻く事であります。神に告白する事であります。そうして、もっと重大なことは、その告白に依って神からゆるされるのでは無くて、神の罰を受ける事であります。自分には、いつも作品だ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ある解釈に従えば、私の偶然に関係した店の主人の仕打ちうや、それに対する私のした事や考えた事なんかは、すべてがただ小さな愚かな、時代おくれの「虚栄心」の変種かもしれない。 しかしともかくも私はちょっと意外な事に出逢ったような気がしてならな・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・そうして、葬儀場は時として高官の人が盛装の胸を反らす晴れの舞台となり、あるいは淑女の虚栄の暗闘のアレナとなる。今北海の町に来て計らずこのつつましやかな葬礼を見て、人世の夕暮れにふさわしい昔ながらの行事のさびしおりを味わうことが出来たような気・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
出典:青空文庫