・・・妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に蹲っておいおい泣いていた。笠井が例の古鞄を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」 笠井が逸早く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるよ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 見る間に付近に散在していた土方が集まって来て、車夫はなぐられるだけなぐられ、その上交番に引きずって行かれた。 虫の息の親父は戸板に乗せられて、親方と仲間の土方二人と、気抜けのしたような弁公とに送られて家に帰った。それが五時五分であ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・吹き飛ばされると同時に、したゝかにどっかを打ったらしい妊婦は、隅の方でヒイ/\虫の息をつゞけていた。 二十一人のうち、肉体の存在が分るのは、七人だった。 七人のうち、完全に生きているのは四人だった。廃坑で待ちほけにあった、タエは、猫・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑んでいるものである。」虫の息。三十分ごとに有るか無しかの一呼吸をしているように思われた。蚊の泣き声。けれども痛苦はいよいよ劇しく、頭脳はかえって冴えわたり、気の遠くなるような前兆はそよともなかった。・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復して来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・の推察が虫の息で活きている。それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよわせた。 このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂した、次の一声が。「武芸はそのため」 その途端に燈火はふっと消・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫