・・・自分はこのごろ齲歯につめたセメントがとれたのではないかと思った。けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一の三味線の話などをしていた。 そ・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・あるいはまたさもなければ齲歯でも痛み出して来たのであろうか。いや、お君さんの心を支配しているのは、そう云う俗臭を帯びた事件ではない。お君さんは浪子夫人のごとく、あるいはまた松井須磨子のごとく、恋愛に苦しんでいるのである。ではお君さんは誰に心・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・お腹が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしにいやいやながら家は出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門を這入ることは出来ないように思われた・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・施与には違いなけれど、変な事には「お禁厭をして遣わされい。虫歯が疚いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状に掌で抱えて、首を引傾けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・明星の丘の毘沙門天。虫歯封じに箸を供うる辻の坂の地蔵菩薩。時雨の如意輪観世音。笠守の神。日中も梟が鳴くという森の奥の虚空蔵堂。―― 清水の真空の高い丘に、鐘楼を営んだのは、寺号は別にあろう、皆梅鉢寺と覚えている。石段を攀じた境内の桜のも・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・触れば益々痛むのだが、その痛さが齲歯が痛むように間断なくキリキリと腹をむしられるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気ながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故此儘にして置いたろう? 豈然とは思うが、もしヒョッと味方敗北・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 長屋の背後の二すじの連山には、茅ばかりが、かさ/\と生い茂って、昔の巨大な松の樹は、虫歯のように立ったまゝ点々と朽ちていた。 灰色の空が、その上から低く、陰鬱に蔽いかぶさっていた。 山は、C川の上で、二ツが一ツに合し、遙かに遠・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・あなたは、何だか、おしゃれになりました。まず、歯医者へ通いはじめました。あなたは虫歯が多くて、お笑いになると、まるでおじいさんのように見えましたが、けれどもあなたは、ちっとも気になさらず、私が、歯医者へおいでになるようにおすすめしても、いい・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・あれは女優と言って、舞台にいるときよりも素面でいるときのほうが芝居の上手な婆で、おおお、またおれの奥の虫歯がいたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・婆芸者が土色した薄ぺらな唇を捩じ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭の後でウーイと一ツをする。車掌が身体を折れるほどに反して時々はずれる後の綱をば引き直している。 麹町の三丁目で、ぶら提灯と大きな白木綿の風呂敷包を持ち・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫